劇場占拠事件の犠牲者を追悼

2002年、ミュージカル「ノルド・オスト」の広告 =「コメルサント」紙撮影

2002年、ミュージカル「ノルド・オスト」の広告 =「コメルサント」紙撮影

今から10年前、ドブロフカ劇場で観客を人質に取るという、ロシア史上最悪のテロ事件のひとつが起こった。ロシアNOWではその悲劇を再び追う。

2002年10月23日(水曜日)、モヴサル・バラエフ率いるチェチェン武装グループは、モスクワ都心にあるドブロフカ劇場を占拠し、ミュージカル「ノルド・オスト」(原作はヴェニアミン・カヴェーリンの『二人のキャプテン』)の観客のうち、900人以上を人質に取った。用意周到に準備をしていた武装犯に対し、劇場の警備員は何らなすすべがなかった。武装犯は劇場の舞台に突入し、チェチェン共和国から連邦軍を撤退させるよう要求した。

解放後に125名が病院で死亡 

3日間交渉が続き、その間、ロシアの複数の政治家は、自分たちを人質とするよう提案を行った。ソ連時代から有名なスターも人質になることを申し出たが、これらはすべて失敗に終わった。「お前たちの生き様よりも美しく死にたい」とバラエフは言った。

劇場突入

ドミトリー・シャルガノフ、フォトジャーナリスト

「当時、防毒マスクなしで観客席に入ることは許されていなかったが、私は入った。ドアが開いた時に、一部換気がなされたようだった。すべての人が眠っていたわけではなく、うめいている人、横になってゴロゴロと動く人、吐いている人などがいた。ひどい臭いだったが、それはガスの臭いではなかった。中は暗く、電気がついただけで撮影ができた。長くその場所にいたわけではなく、恐らく2~3分で出た」。

交渉の結果、武装犯はイスラム教徒、外国人、未成年の一部を解放することに同意し、また政府にはチェチェンからの軍の撤退を速やかに始めることを要求し、それが実行されなければ人質を銃殺する考えだと述べた。

10月26日(土曜日)に人質救出作戦が行われたが、その前に建物の換気口を通して催眠ガスを送り、テロリストを無力化した。劇場に突入した特殊部隊は、数分でテロリスト全員を殺害し、大半の人質を解放した。

だが、悲劇はこれで終わらず、解放後に、モスクワの病院で125名の人質が亡くなってしまった。

ワシーリエフ議員「ガスの使用の仕方を充分習得していなかった」 

下院(国家会議)安全委員会に所属するウラジーミル・ワシーリエフ議員はこう回想する。

突入後の悲劇

アレクサンドル・ツェカロ、ミュージカル「ノルド・オスト」第一プロデューサー

「突入作戦後、1週間にわたり遺体安置室を回った。人質の近親者に何も伝えられていなかったからだ。事件後に起きたことはすべてとにかく悲惨だった。人質を病院に受け入れながら、誰もいかなる質問にも答えなかった。生死を確かめる唯一の方法は、遺体安置所を回ることだった。そこに探している人がいなければ、その人は生きていて、他の病院を探す必要があるということだ。不可解な、そして私の人生の中で恐らく最も重いできごとだろう」。

「さまざまな理由で市民を守ることができなかった。特に医療救助を必要としていた人々に、すぐにそれを行うことができなかった。私はこの事件にある程度関係していたし、自分にも幾分か責任があると思っている。これは自分の人生で最も重い事件だった。実際、ひどく準備不足だった」。

ガスの使用が人質の健康状態にどの程度影響を及ぼしたかについて、マスコミでは広く議論されたが、政府がそのガスの成分を公表しなかったことで、油に火を注ぐこととなってしまった。

ロッシースカヤ・ガゼータ紙へのインタビューで、ワシーリエフ議員はガスを使用する際、間違いを犯したことを認めた。とくに特殊部隊がその使い方を前もって習得していなかった点だ。

「劇場のわきにはちょうどそれと同型の文化会館があった。テロリストと交渉を進めている間に、特殊部隊はこの特殊ガスをテストし、ガスがどのように人に影響を及ぼすか確認できたはすだ。残念ながら、それがなされたかった」。

これまでに、このテロの首謀者はアスラン・マスハドフだったことがわかっている。劇場事件から2年後に、連邦軍によってマスハドフは殺害された。

 ドブロフカ劇場の犠牲者を悼み、教会が建立され、突入と人質が死亡した10月26日に、献堂式が行われる。

*RBC、ロッシースカヤ・ガゼータの記事を参照。

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