ウラジオストク:軍事地区から経済的中心地へ

最近開催されたアジア太平洋協力(APEC)サミットのずっと前から、太平洋に面するこの都市を見る価値は十分にあった。

「東方を支配する街」 

 ウラジオストクは、太平洋のすぐ手前に位置し、シベリア鉄道の終着駅となっている。しかしここは、アジアの環太平洋諸国とロシアが現代的な関係を築くための潜在的な足掛かりとなる、出発点の意味ももっている。「東方を支配する街」という意味の名前をもつ都市にとって、そのような可能性は建設された当初から思い描かれていたのだ。

 この交流が停滞したのは、部分的には冷戦の負の遺産だ。ソ連時代、この街は重要な軍事地区となっていたが、外国人に閉ざされていたため、経済的発展につまづいてしまった。この遅れは、ウラジオストクと、その西6000マイル先にあるモスクワの間の遠距離にも由来する。

 2012年APECサミットの開催準備にむけた、ウラジオストクの最近の発展ぶりは、ずいぶんと騒がれた。公式の情報筋によれば、2008年以来、210億ドルを超える額が、至急必要とされていた市のインフラの拡張やその他の建設プロジェクトに費やされた。

 

金角湾を見下ろす絶景 

 しかし、近年になって資金が流入するずっと前から、ウラジオストクには魅力があった。この都市は金角湾を囲む丘陵という壮観な眺めによって引き立てられている。この湾の名前は、イスタンブールで金角として知られる著名な河口にちなんでつけられたと考えられており、湾の海水は、特に晩夏の鮮やかな日光に浸されると黄金色であるかのように見える。

 近くには、風光明媚なルースキー島があり、世界最長の斜張橋によってウラジオストク市とつながれている。20世紀初頭に配備され、現在は草木がうっそうと茂るこの島のかつての軍事要塞は、失われた帝国の名残として独自の魅力を放っている。

 

掘っ立て小屋から始まる 

 ウラジオストクは、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(1809〜1881)が1859年に指定した金角湾の敷地に、少人数の兵士がいくつかの掘っ立て小屋を仮設したことがきっかけで1860年7月に建設された。

 ムラヴィヨフは、清朝との交渉の末、1860年の北京条約批准後に、ロシアがアムール川とウスリー川沿いの広大な領地を獲得するにあたって、その推進役となった人物だ。 

 ウラジオストクに活気に満ちた港を整備することは、ムラヴィヨフによる戦略の重要な一部だった。実際に、この街の最初の大通りは、ムラヴィヨフが1859年に金角湾に到着する際に乗船した「アメリカ号」にちなんで、アメリカンスカヤ通りと名付けられた。

 1873年には、この通りはスヴェトランスカヤ通りと改名されて今日に至っている。この名は、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公が、海軍船の「スヴェトラーナ号」で行啓したことを記念してつけられた。

 

国際商業都市へ飛躍 

 言うまでもないが、この街が建設された当初の数十年間で、全人口のうち中国人が占める割合はかなり高かった。ロシア人の移住者が少なかったウラジオストクでは、中国人の(そしてそれに次いで韓国人と日本人の)労働力と技術力は、市の発展に欠かせなかった。

 1888年、ウラジオストクはハバロフスクに取って代わり、広大な東シベリア地方における行政の中心地となった。ついで、同市には、正式に「軍事要塞」という呼称が与えられた。行政と軍事の関係者が、依然としてこの市のロシア人人口の中核をなしている。

 結果的には、通商の魅力や鉄道建設と港湾開発により、この都市は飛躍的に拡大していった。1903年、ウラジオストクはシベリア鉄道により、モスクワと繋がれた。その頃までには、この街の人口は3万人を超えていた。1899年には、市で初の高等教育機関である東洋学院が設立された。

 

多彩な建築群 

 20世紀初頭のウラジオストクの建築は、国際的な港湾にふさわしい西欧様式に従ったものだった。外国人やロシア人建築家が商用の建造物を設計したが、これらは今日も依然として市の中心部に独特の外観を与えている。少々廃れかけてはいるものの、これらの華麗な建造物の中でも主要なものには、中央郵便局のほかに、ハンブルク出身の2人のドイツ人移民が1864年に創業したデパートのクンスト&アルバーズがある。

  この街に比較的多数いるドイツ人とポーランド人の共同体が通う、大きな煉瓦造りの新ゴシック様式のカトリックとルーテル派の教会は、現在では修復され、さかんに利用されている。正教の礼拝堂も出現している。その中には、日露戦争(1904〜1905年)のロシア人犠牲者への追悼のために1907年に建立された聖ニコライ大聖堂がある。

 

革命と内戦に沈む 

 ロシアの他の地域と同様に、第一次世界大戦敗戦後のロシアに発生した内戦により、活力に満ちた進歩の街は、混沌と悲惨の世界へと変貌した。この時期、ウラジオストクでは反ボリシェビキ派の間で抗争がひんぱんに繰り広げられ、1918年にはアメリカ兵と日本兵を含む外国の干渉軍が進駐した。ウラジオストクが、後にソビエト連邦となるロシアに正式に併合されたのは、1922年10月のことだった。

 

21世紀に翔ぶか 

 第二次世界大戦中、ウラジオストクは米国からのレンドリース法による援助物資をつなぐ重要な役割を果たしたが、戦後は、戦略的な陸軍および海軍施設が配備されていたため、この街は部外者に完全に閉ざされてしまった。この街の外観にとっては残念なことだが、ソビエト時代後期になると、押し付けがましく、独創性に欠けた建築が建造された。ニキータ・フルシチョフは、 「ウラジオストクはその美しさでサンフランシスコを凌駕するだろう」と、1959年の訪問時に豪語したが、それはほとんど裏付けられなかった、

 人口が60万人におよぶ今日のウラジオストクは、多額の投資と重大な変化に対応する用意ができている。しかし、1世紀以上前の建築の遺産は、この都市の文化的アイデンティティの不可欠な一部であり続けている。