学校の近代化

=ナタリア・ミハイレンコ

=ナタリア・ミハイレンコ

新学期が始まった。ロシアの学校(11年制)の現状について思い出す良い機会だ。現状は、5段階評価でマイナスつきの3といったところだ。

現状はマイナスつきの「3」 

確かに、名実ともに一流の学校もリセもギムナジウムもあるにはあるが、その他はずっと落ちる。

国家は、すべての生徒にあらゆる中等教育を与えるのを自分の義務だとみなしているが、私に言わせれば、幻想もいいところだ。これは私だけの見解ではなく、多くの先進国でもそう考えている。
もちろん、教育の機会はすべての生徒に平等に与えられねばならないが、問題は、その機会が然るべく活用されたか、されなかったかということで、活用されなかった場合、責任は、国だけではなく、親も当の生徒も負うべきだ。

教育の機会は活用されなかったと公に認め、卒業証書はもらうべきではない。

ダブル・スタンダードはもういい加減やめたほうがよい。100点とった生徒と20点の生徒に等しく卒業証書をやるのでは、社会が分裂してしまう。

国家は何を改めるべきか 

国家は何を改めるべきなのか。第一に、教員の給料と社会的地位を上げることだ。もちろん、一律に全員ではない。色んな教師がいるし、なかには自己教育する能力も意欲もない教師が少なくないのだから。

数年前に導入された「国家統一試験」は、学校を改善する手段の一つなのに、大半の教師がこれに反対していることは、国と社会にとってシグナルである。つまり、学校の改善も自己教育も望んでいない教師がいる、ということだ。したがって、教師の給料とステータスの問題は、個別に決めねばならない。

第二に、教師には定期的に、職能を向上させるように仕向けなければならない。これは、古くからあるスタンダードな大学では、比較的よく行われているが、最近出来た雑多な短大などでは、あまりうまくいっていない。

教員は何を学ぶべきなのか?日進月歩で進んでいく自分の専門は言わずもがな、学校活動の意義とメカニズムを学ぶ必要がある。それこそが「新指導要領」の根幹なのだから。

第三に、学校の管理職についている人々も、絶えず職能を向上させるべきだ。

第四に、教育改革についてのおしゃべりはやめて、仕事に着手すべきだ。もし、教師が、自分の科目のエキスパートたらんとするなら、大学の学部と修士課程は、知識の“割引”なしで修了しなければならない。

第五に、学校の課外授業を復活させるべきだ。これは今では、多くの学校で廃止されてしまっている。

託児所としての学校 

次に生徒の親に対してだが、教育に関する先入観を改めることだ。ソ連時代の学校制度は、意識的に親の教育観を骨抜きにした。4世代にわたって、学校というところは、働く両親のための“託児所”であるとの先入見が植えつけてきた。

こうした負の遺産を背景に、教育の成果の問題が、先鋭極まる形で現れるにいたった。学校が自分で自分を評価していた間は、すべて結構に思われたのだが、「国家統一試験」は現状を容赦なくあぶりだして見せた。これはもはや国家安全保障の問題でもある。

こうした劣等生が、健康に問題があるとか、移民の子であるとか、農村の僻地に住んでいるとかいうことなら、話は別で、解決策はある。

だが、こういう劣等生の少なくとも半分は、都市部のノーマルな家庭で育っているのだ。これは、かなりの点で、危機意識の欠如の結果である。恒常的な不勉強の結果どうなるかについて明瞭な意識が欠けているのだ。

 責任と主体的努力 

今や次のことが明らかだ。国家は、教育の機会均等について責任を負っている。しかし、両親と生徒のほうも、いかにその機会を利用するかについて責任がある。

「国家統一試験」で、100点満点で20点なら、卒業証書はもらえない。50点は、大学に入る資格があるか否かの分水嶺。20~50点は、中東専門教育か短大。このようにすべきだ。 

国はこれまで通り、全員に例外なく中等教育を“施す”というユートピア的幻想に、しがみつき続けるだろう――あなた任せの親と怠け者の生徒がこう確信しているかぎりは、彼らの態度は何も変わるまい。

責任と主体的努力、これは昔から、わがロシア国民の大部分にとって弱点だったが、もはやそれを改めるべきときだ。当然、まずは学校から。

元原稿