ロシア空軍創設100年

=ロシスカヤ・ガゼータ紙撮影

=ロシスカヤ・ガゼータ紙撮影

ロシア空軍が創設100年を迎えた。帝政時代の1912年に、アレクサンドル・ミハイロビッチ大公が次のような布告を出してから、ちょうど1世紀だ。「ロシア空軍は隣国のそれよりも強力でなければならない。およそ祖国の軍事力に無関心でない者は、このことを肝に銘じるべきだ」。

草創期 

黒海艦隊の基地があるセバストーポリや首都サンクトペテルブルク近郊のガッチナに、航空学校が開設され、各部隊から志願して集まった将校に対して、教育、訓練が施される一方、首都の工科大学では、理論的な学科の講義も行われた。

当時の名パイロット、ピョートル・ネステロフは、宙返りを世界で初めてやってのけ、海洋画家イワン・アイワゾフスキーの孫であるコンスタンチン・アルツェウロフは、機体を失速させて、きりもみ降下させる技を敢行した。

1914年7月には、世界初の4発大型機が、設計者イーゴリ・シコルスキーの操縦で、サンクトペテルブルク―キエフ間の往復飛行を行った。

第一次世界大戦 

大戦が勃発する頃には、露空軍は256機の軍用機と250人のパイロットを数えていた。

当初、空軍の主な任務は偵察飛行だった(重いカメラで上空から、敵の布陣、地形、距離を撮影し、そのデータにもとづいて、砲兵部隊の砲撃目標を修正する)。そのうち、敵味方のパイロットがお互いを撃ち合うようになり(最初はピストル、その後は機関銃で)、空中戦が始まった。

1914年12月には、4発爆撃機「イリヤ・ムロメッツ(叙事詩の主人公の名に因む)」の部隊が創られた。

混乱期を乗り越えて 

1917年のロシア革命と内戦の時期には、露空軍最高のエースの一人であったカザコフ大佐が、英国の少佐として赤軍のパイロットと戦うという悲劇もあった。

レーニンが焦燥に駆られて、総司令部に「敵の騎兵隊を飛行機で攻撃できないかな?超低空で飛行して…」と打電する一幕もあった。

混乱期を乗り越えて、空軍は再び発展期に入る。最初にソ連邦英雄の称号を授与されたのは、他ならぬパイロットたちだ。1933年に彼らは、北洋航路開拓に挑戦した「チェリュースキン」号の乗組員を救助した。

また、初めて北極点を経由してアメリカに飛行したのも、ソ連のパイロットたちだった。スペイン内戦など、戦場でも勇敢に戦ったが、スターリンの大粛清で彼らの多くが銃殺されることになった…。

大祖国戦争と戦後の発展 

しかし、露空軍にとって最大の試練は大祖国戦争だった。1941年からドイツ空軍と激烈な戦いを繰り広げるが、結局、制空権を奪う。ドイツ軍が東部戦線で失った航空機は7万2千機にのぼり、うち赤軍パイロットによるものは5万6千機だった。

女性パイロットからなる連隊が3つ創られ、26人が「英雄」の称号を得ていることは特筆したい。

 私の世代は、米ソ冷戦の真っ只中で勤務した。世界が第三次世界大戦の瀬戸際にあったこともある。80年代末には、露空軍には50万人が勤務し(うちパイロットは3万人)、1万3千機の航空機と6千機のヘリコプターに加え、あらゆる装備を備えていた。

連邦解体から現在まで 

1991年末のソ連崩壊とともに再び混乱期が訪れ、人員、予算は大幅に削減され、給料の遅配は数ヶ月に及んだ。航空燃料も供給されず、4万人の空軍関係者が住居を失った…。

近年、露空軍は、改革期、復興期にある。技術と装備全般が近代化されつつあり、そのための予算も支出されている。友好国との、航空産業における協力関係も強まっている。露空軍の飛行は続いている…。

(「独立新聞」紙抄訳)