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1882年の今日、人形アニメを初めて考案し、撮影したウラジスラフ・スタレービッチ(~1965)が生まれた。
20世紀初め、脱サラで映画界へ
1909年当時、スタレービッチは、測量事務所に勤めていたが、モスクワでアレクサンドル・ハンジョンコフ(ロシアの映画製作の草分けの一人)と知り合い、特殊なジャンルの映画を摂りたいと言った。
ハンジョンコフは、必要な機材を提供する代わりに、撮影した映画の権利は自分のものとする、という条件で承知した。
ハンジョンコフは、スタレービッチのためにアパートを借りてやり、撮った映画は全部自分のところに持ってくるようにと言って、最初の一作の撮影に5ヶ月間の期限を与えた。
10週間後、スタレービッチは早くも、3つの映画を持参した。ハンジョンコフは、今度は住まいと別に、仕事場ともっと本格的な機材を提供するとともに、完全な製作上の自由を与えた。
こうしてスタレービッチは矢継ぎ早に20作以上の映画を撮影したが、そのなかには、「麗しのリュカニダ」、「トンボとアリ」、「カメラマンの復讐」、「降誕祭前夜」、「ライネッケ狐」、「老いたライオン」などの傑作が含まれていた。
傑作「トンボとアリ」
皇帝が輸出のため買い上げる
「トンボとアリ」(1913)は、大評判となり、世界アニメ史上の傑作とされている。この作品は、140以上のコピーがとられ、空前のヒット作となった。
皇帝ニコライ二世は、この映画を輸出するために、買い上げた。
多くの人は、スタレービッチが死んだ動物を集めて、それで撮影していると勘ぐっていたが、実際には、すべてのキャラクターが粘土細工だった。
彼の大車輪の仕事を、家族全員が手伝った。妻のアントニヤは、人形の衣服を縫い、顔を描いた。長女のイレーナは、シナリオを書いて、人形遣いと原画を描くアニメーターを兼ね、次女のヤーニナは、映画にヒロインとして出演した。
これほどの完成度のアニメは、当時、数年の歳月と人形遣いなど大勢の専門家を要したが、スタレービッチは家族だけでやってのけた。
瓢箪から駒
スタレービッチは、人形アニメの発想をどこから得たのだろうか?
彼は、実は昆虫学にも熱中しており、最初、クワガタムシのドキュメンタリーを撮ろうとしたのだが、撮影に必要なだけの照明を当てると、虫の動きが鈍くなってしまうことが分かった。そこで、虫の甲羅を使って模型を作り、必要なシーンを撮った。こうして、世界最初の人形アニメが誕生した次第。
「老いたライオン」