100歳スイマー:記録を樹立

クラピヴィンさんは長寿に秘訣などないと考えている。毎朝6時に起床し、海に向かって走り、海で泳ぎ、海から走って帰宅するだけだという。=ミハイル・モルダスフ撮影

クラピヴィンさんは長寿に秘訣などないと考えている。毎朝6時に起床し、海に向かって走り、海で泳ぎ、海から走って帰宅するだけだという。=ミハイル・モルダスフ撮影

ヴァシリー・クラピヴィンさんが新たな年齢区分で25mを完泳

ソチで開催された競泳大会に参加したクラピヴィンさんは、25m自由形を50秒で泳いだ。公式競泳大会に参加した、ロシアで唯一の100歳以上の選手となった。

1912年生まれのクラピヴィンさんのために、新たな年齢区分となる「100歳以上」が競泳大会の規則に追加された。主催者は当初は50m競争への参加をすすめたが、クラピヴィンさんは体への負担を考え、25mが精一杯であることを伝えた。

真っ白な髪とヒゲをたくわえた屈強なこの100歳の男性は、拍手に迎えられながら、二人の泳ぎ手を伴ってスタート台に立った。二人はクラピヴィンさんの護衛役だ。会場には救急医も待機していた。クロールで泳ぎ始め、最後の数mはコースロープにつかまりながら背泳ぎで泳いだ。苦労しながらも自力で泳ぎきり、しばらく水の中で休んでからプールを上がった。

ソチで開催された競泳大会に参加したクラピヴィンさんは、25m自由形を50秒で泳いだ。公式競泳大会に参加した、ロシアで唯一の100歳以上の選手となった。=ミハイルモルダスフ撮影

観客が完泳を祝福すると、クラピヴィンさんは観客の健康を祈念して手を振った。観客の一部は、クラピヴィンさんの鋼のような手の力強い握手に、痛みで思わず顔をしかめた。拳闘家だった祖父の力を受け継いでいるようだ。クラピヴィンさんは子供時代からたくさん働いてきたが、自身の話によれば、幸せな人生だったという。

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18歳からトゥーラ市郊外の炭鉱で働き、崩落事故が起きた際も奇跡的に助かった。1937年にトムスク工科大学を卒業したが、反ソ連プロパガンダを広めた容疑で収容所に送られ、12年を過ごすこととなった。具体的にどのような容疑で送られたのかについて、本人も説明できなかった。当時は裁判がなかったからだ。収容所のコルィマ鉱山では、金や錫鉱石を採掘した。与えられたノルマをこなし、900グラムのパンの全量配給を受けていたため、生き延びることができた。「あそこは1年のうち12カ月が冬で、残りが夏なんだ」と笑いながら当時を振り返る。

自由の身になってからはマガダンに行き、船舶修理工場に就職した。学生時代に体育のトレーナーをやった経験がここで生き、工場のチームを教えた。スケート、スキー、中距離走、高跳び、やり投げ、円盤投げ、榴弾投げなど、運動としてではなく、愛好者として楽しみながらやっていた。温かい日でも水温が10度を超えることのないオホーツク海を泳いで、マガダン中を驚かせることもあった。

1960年代にソチに引越し、結婚して水泳を日課とするようになった。荒海を泳ぎきったこともあった。波の性質を理解して波を感じることが大切で、怖がってはいけないという。90歳になるまで日常的に運動をし、大会に出場していたが、100歳を過ぎた今、あまり体を動かしていないことを残念がる。クラピヴィンさんは長寿に秘訣などないと考えている。毎朝6時に起床し、海に向かって走り、海で泳ぎ、海から走って帰宅するだけだという。

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