スラヴ・カリグラフィーへの哀史

=PhotoXPress撮影
=PhotoXPress撮影

友人たちと信濃川の岸辺でバーベキューを愉しんでいた時のことだ。そこには日本人とアメリカ人と私。二本目の缶ビールを空けると、シアトルの友人が、キリル文字を目にするたびに想い浮かべるという、こんな小噺を披露してくれた。

「あるとき、ロシアの修道士キュリロスとメトディオスがヴィザンチウムから帰る際、モンゴル・タタール族に追われた。その時、彼らがローマ帝国からスラヴ人のもとへ運んでいたラテン文字が袋の中でごちゃ混ぜになり、二人ともそれをどう書くか想い出せなかった。これがキリル文字誕生の一幕だ」。

日本の友人たちの前でこんな話を聞かされたら黙ってはいられず、三本目のビールを開けて、歴史をひも解くこととなった。

先ず、当時はまだモンゴル人もタタール人もルーシ(ロシアの古称)へ襲来していなかった。しかも、ロシア人はまだ民族として形成されておらず、様々な種族から構成されていた。そして彼らは9世紀まではおそらく、白樺の樹皮にゴシックのルーン文字で記していた(その証拠はほとんど残っていないが)。一体9世紀に何が起きたのだろうか。

その昔、キュリロスとメトディオスという二人の修道士の兄弟がいた。彼らはロシア人ではなく、マケドニア人か南スラヴ人だった。北からはスラヴの蛮族が迫ってきていた。ギリシャ文明はすでに獣姦や同性愛によって滅び、ローマ帝国は絶えざる拡張と汚職のために、火山のように崩落してしまっていた。それ故、これらの種族はギリシャ語もラテン語も習おうとはせず、誰にも分からない南スラヴの言葉で話していた。一体どうやって彼らをキリスト教へ回心させたものか、これにはローマ法王も頭を悩ませた。

当時、カトリック教会は聖像画の是非をめぐり、二つの陣営に割れていた。一方では、旧約聖書に基づいて、神はあらゆる偶像よりも敬われていた。また、生命あるものを一切描いてはならないとする、近隣のイスラム教徒たちがアラブ世界から迫ってきていた。欧州南部では司教らが教会の聖像画を一掃してしまった。

聖堂における聖像画の是非をめぐる争いは、6世紀から9世紀まで続いた。しかし、8世紀ごろには法王たちが、聖像画は庶民にとって書物の代わりになるとして、聖像画の復活を求めるようになった。聖像画は修復され始めたが、その上書きの言葉は、最初はもっぱらギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語だった。9世紀になると、キュリロスとメトディオスがスラヴの種族の言葉のために、特別のアルファベットを考案した。子音から母音を切り離し、ギリシャ語のアルファベットをもとに、すべての音に固有の文字を当てはめた。「蛮族の言葉で」神を賛美できることを西方教会に納得させるために、ほとんどの生涯を捧げたと言える。

アルファベットは二つできた。典礼用のグラゴル文字と日常用のキリル文字だが、キュリロスとメトディオスはグラゴル文字(グラゴルは「言葉」の意)を用いて、主要なキリスト教の聖典をブルガリア語に翻訳した。こうした功績ゆえ、彼らは今なお全スラヴ民族から聖人と崇められている。

グラゴル文字はこんな文字だった。

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ご賢になればお察しいただけると思うが、この組み合わせ文字は書きづらく、覚えにくい。そのため、早くも11世紀ごろには、キリル文字がスラヴ人の主たるアルファベットとなった。

その後も簡略化が続き、15世紀ごろには草書がお目見えした。

キリル文字草書

とはいえ、アジア人と異なり、スラヴ人はほとんど筆を用いず、自分たちの文字を記すのに、薄板の小片や鶏か鵞鳥の羽根を使っていた。周知のように、17世紀にはロシアは、イギリス向け鵞ペンの最大輸出国であった。トルストイやドストエフスキイも鵞ペンを用いていた。私たちが芸術としてのスラヴ・カリグラフィーについて語る際には、何よりもまず「羽根ペンの舞」がイメージされる。というのも、スラヴ・カリグラフィーは漢字ではなく、表音文字を記すものだ。そのため、見た目もアジアの言語のように筆の3Dではなく、平面的な二次元のものとなる。

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ロシアにおけるカリグラフィーが手書きの創作(中国、日本あるいは朝鮮のように)ではなく、版画へと向かったのは、書籍印刷(16世紀)の出現の影響もあったかもしれない。ほかに民族的、心理的な要因も考えられる。というのも、10世紀間もの間、ロシアはたえず内外の戦争によって引き裂かれていたからだ。バトゥの襲来、チンギスハンの軛(くびき)、スウェーデンやリトアニア騎士団の攻撃、ナポレオンの侵攻、旅順攻囲戦(日露戦争における戦闘の一つ - 編集部注釈)、三国協商、ヒトラー等、誰もがこの世界最大の国を分裂させたがり、ロシアも自ら榴弾のように内部で炸裂しようとしていた。そうした時代には、文字は人々にとって、アジアにおけるように瞑想のためのものではなく、集団的軍事組織のためのものであり、硬くしっかり記されれば記されるほど、一般のロシア人(25年もの間兵役を務めた兵士たち)の気が触れないようにするためには役立った。修道士たちは、一義的に読まれても疑問を生じさせないよう、できるだけ硬い筆致で聖書を写していた。文字の美しさは、文具の舞ではなく、いわゆる「組み合わせ」によって獲得された。ロシアの組み合わせ文字の例として、16世紀の福音書の冒頭をご覧いただこう。

ロシアの偉大な詩人プーシキン(19世紀)は、一週間に16時間から18時間もカリグラフィーに取り組んでいたことが知られている。それによって詩人は瞑想に耽り、現代ロシア語の基礎となる作品を生み出していったのだった。

翻って、今日のロシアのカリグラフィーはどうであろうか。 皆無である。コンピュータの出現に伴い、文字はデジタル化され、カリグラフィーはいずれの言語においても過去のものとなりつつある。4歳になる我が息子は文字を書きたがらず、すぐにママやハパと同じように、キーボードを叩こうとする。組み合わせ文字に費やす時間などないのだ。自問してみよう。最近1分間以上、手で何かの文字を書いたのは、いつのことだったであろうか。

2011年の東京ブックフェアーに出展されたもののうち、半分以上が紙媒体ではなく、電子書籍リーダーデバイスだったのは、はたして偶然だろうか。

残念ながら、今日スラヴ文字の美しさに想いを馳せる人は少ない。ロシアには一つだけモスクワにカリグラフィー・ミュージアムが在るが、スラヴ文字の展示は、イスラムやユダヤの文字の展示に比べてはるかに少ない。館内を巡って趣深いアラブの組み合わせ文字や見事なヘブライ語の手書きの文字を目にすると、思わずこんなことを想ってしまう。もしかすると、「ウィンドウズ」の新しいソフトウェアが無断でマプチェ語に翻訳された際に、自分たちの文化遺産を侮辱したとしてビル・ゲイツ氏を非難した、チリの先住民族マプチェ族は正しかったのではなかろうか、と。

トルストイ、プーシキン、ブロツキー、セヴェリャーニン、その他のロシアの作家や詩人たちのカリグラフィーはこちら: 

http://www.free-lance.ru/users/nastia_levina/viewproj.php?prjid=3004457

写真提供:アナスタシア・レービナ

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