安全な作家たち

タス通信撮影

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ロシアでは伝統的に、文学者と権力はある程度対等の立場で対話してきた。たとえ権力が文学者を力で押さえつけたとしても。押さえつけねばならなかったのは、作家の言葉が権力にとってそれなりの意味をもったからだ。

状況はこのわずか 15 年間で質的に変わりはじめた。よい方へか悪い方へかは敢えて即断しまい。

文学そして芸術全般は、権力から相手にされなくなった。文学、芸術は、人間存在の意味を定義するものであって、現実の政治において意味をもつものとはみなされなくなったのだ。

ニコライ一世は自ら詩人プーシキンの検閲者となり、スターリンは作家アンドレイ・プラトーノフの作品の余白に「畜生!」と書き、ゴルバチョフは本気で民衆の精神的支柱だった作家たちに取り入ろうとした。

けれども、プーチン首相が、たとえば、自分に批判的な作家エドゥアルド・リモーノフの著作を読んで余白に「畜生!」と書くような図はとうてい想像できない。

おそらく文学者が今ほど安穏な時代はない。怒鳴りつけられたり足で踏みにじられたりするおそれはなく、まして反逆のかどで自分か仲間が絞首刑に処せられることなどあり得ない。

今、権力は、体裁ぶるためにごく稀に作家と接するだけで、そうした「交流」には何の意味も感じられない。

ボリス・アクーニンやリュドミラ・ウリツカヤは、石油会社ユコスの元社長で服役中のミハイル・ホドルコフスキーを擁護する発言をした。だが、それが何だというのか。

民主主義の国である以上、書きたければ書き、庇いたければ庇えばいい。祖国、権力、将来、何でも好きなだけ語れる。

ただ、この「民主主義」の唯一の欠点は、何を言われても権力が無関心を決め込んでいることである。
(『ロシアNOW』への特別寄稿)