ナタリア・ミハイレンコ
ロシアの作家で社会活動家でもあるアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、既に半世紀前に今日のウクライナの状況を予見し、『収容所群島』に、「ウクライナ問題は非常な痛みをともなうだろう」と書いていた。
ソ連時代に彼は、ウクライナの分離独立もあり得ると述べるとともに、この国が、歴史的境界とは無関係に、レーニン的な定規で勝手に線引きされたことを考慮しつつ、こう予言していた。「各州で住民投票が必要になるかもしれない」と…。
『収容所群島』第5章第2節(1968年執筆、1974年発表)
…これについて書くのは辛い。ウクライナとロシアは、私の血肉、心臓、思想のなかで一つになっているからだ。しかし、収容所でのウクライナ人たちとの親しい付き合いの積み重ねは、いかに彼らのなかに悩みが鬱積しているかを示してくれた。我々の世代が古い世代の過ちを償うことになるのは必至だ。
地団太踏んで「これは俺の土地だ!」と叫ぶのは一番安易な道だ。「住みたい人は誰でも住んでください」と言うのは遥かに難しい。「進歩的な教義」は、民族主義は衰退するだろうと予言したが、これは意外千万にも実現せず、原子とサイバネティックスの時代に、なぜか盛んになっている。
その結果として、好むと好まざるとにかかわらず、我々自らが進んで、自己決定、自治、独立について“支払い”を済ませるべき時が近づいている。支払わないがために、焼き殺されたり、川に投げ込まれたり、斬首されたりするまで、みすみす座視すべきではない。
我々が偉大な国民であるか否かは、領土の大きさや、統治下に置いている民族の数などで証明すべきではなく、大いなる行動をもって証明すべきだ。そして、我々と共に生活することを望まない人たちの領土を差し引いた土地がどれだけ深く耕されているかをもって。
ウクライナ問題は非常な痛みをともなうだろうが、現時点で全般的にどのくらい緊迫しているか、知っておく必要がある。数世紀のあいだ問題が未解決のままだったのなら、我々が知恵を出さねばらない。つまり我々は、彼ら自身――連邦主義者あるいは分離主義者――に解決を委ね、誰が誰をどう説得するか決めさせねばならない。譲歩しなければ、狂気と残虐行為が待っている。我々が今、柔和に、忍耐強く、納得ずくで事に当たれば当たるほど、将来に統一を回復できる希望が増す。
そうやって彼らに生活させ、試させてみるがいい。彼らは、あらゆる問題が分離独立で解決できるものではないことに早晩思い当たるだろう。
(ウクライナでは、自分をウクライナ人だと思っている人、ロシア人だと思っている人、何人とも思っていない人が、各州ごとに独特の関係にあるので、色々難しい問題が生じることになる。もしかすると、各州で住民投票が必要になるかもしれない。その後で移住を希望する人は、優遇し大切にしなければならない。今のソ連で線引きされているウクライナのすべてが実際にウクライナである訳ではないのだ。東部の一部は実際にロシア寄りだし、クリミアに至っては、フルシチョフの間抜けさ加減でウクライナに組み込まれたにすぎない。「紅ルーシ(ガリツィア地方)」はどうだろうか?自分たちへのまっとうな態度を要求するウクライナ人たちが、この地域に住むロシア人に対してどう振舞っているか、見てみようではないか)。
1981年4月(ハーバード大学ウクライナ研究所で行われた、ロシア・ウクライナ関係についての会議に寄せた書簡)
ロシア・ウクライナ関係が現在の最重要課題の一つであり、いずれにせよ両国民にとって重大であるという点には異議がありません。しかし私は、この問題をめぐっていたずらに感情的になることは破滅的な結果をもたらすと懸念します。
…これまで再三述べてきましたが、相手が誰であれ、力で引きとめておくことなどできません。また争っているどちらの側も、相手に対して暴力を行使するようなことがあってはなりません。相手が民族全体であれ、何らかのマイノリティーであれ同じことです。なぜなら、どんな少数派の中にも、入れ子人形のように、さらに少数派が含まれているからです…。
いかなる場合でも、地元の意見に耳を傾け、それを実現しなければなりません。どんな問題でも、その地元の人々だけが真に解決することができるのです。どこか遠くにいるエミグラントたちが、歪んだイメージに基づいて議論しても解決できません。
…ロシア・ウクライナ問題をこのようにいきり立って性急に論じているのを見ると、心が痛みます(これは両国民にとっては破滅的で、彼らの敵を利するだけです)。私自身は、両者の混血ですし、両者の文化的影響のもとで成長しました。そして、両者が敵対しているのを目にしたことなどありません。
私は、ウクライナとその国民について、同国での集団化による飢餓の悲劇について、再三書いたり公の場で話したりしてきましたが、私はロシア人とウクライナ人の苦しみが共産主義体制下での共通のものであることを、いつでも知っていました。
私の心の中には、両国民の対立を入れる余地はありません。もし、不幸にして極端な事態に至り、愚か者たちが両者の対立に我々を引きずり込もうとしても、そこに自分が加わることは決してないし、自分の息子たちをやることも絶対にありません。
この書簡は1981年6月18日に、「ロシア思想」誌に発表。ロシアでは、「ズベズダ(星)」誌に、1993年12月号に初めて掲載。
「我々はいかにロシアを建設するか?:ウクライナ人とベラルーシ人へ」(1990年に執筆、発表。邦訳は、『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』木村浩訳 1990年、日本放送出版協会)
今日ウクライナを分離独立させるということは、数百万の家族と数千万の人間を分断することだ。人口はどんな分布になるだろうか?いくつもの州でロシア系住民が多数を占めるし、多くの人がどちらの国籍を選ぶべきか迷うだろう。多くの人が両者の混血であり、ロシア人とウクライナ人の結婚も多数に上る。しかも、これまでは、誰一人、混血だとか国際結婚だとか思わなかったのだ。一般人の間にはいかなる不寛容もありはしない。
もちろん、ウクライナ人が本当に分離を望むなら、誰も力ずくで引き止めはしない。だが、この多様な人口分布からして、それぞれの地元住民だけが自らの地域、州の運命を決めることができる。そして、新たに形成されたどんなマイノリティーも、暴力を被るようなことがあってはならない。
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