原発衛星都市プリピャチ:チェルノブイリ事故前の日常

 プリピャチは大きな都市ではなかったが、ソ連の基準からすれば、暮らしに必要なものはすべて備わっていた。

プリピャチは大きな都市ではなかったが、ソ連の基準からすれば、暮らしに必要なものはすべて備わっていた。

pripyat-city.ru
 プリピャチは、ごく普通のソ連の都市だったが、そこでの淀みない生活は、1986年4月26日に断ち切られた。その日、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した。事故の以前と当時のプリピャチの姿を写真で辿ってみよう。

キエフから90キロメートルの地点に位置するプリピャチは、とても若い都市だった。それは、2キロメートルしか離れていないチェルノブイリ原発で働く人々のための町として1970年に創建された。プリピャチは、ソ連に存在していた20の原発衛星都市(アトモグラード)の一つ。
この町は、7万5千の人口を想定して造られた。チェルノブイリ原発事故以前で直近の1985年に実施された住民調査によれば、プリピャチには、約4万8千人が暮らしていた。
それは、住民の年齢という点から観ても非常に若い都市だった。市民の平均年齢は、たったの26歳で、当時の住民の話では、その町では結婚式が頻繁に行われていた。新婚夫婦のための特別のサロンの建設も開始されたが、事故と避難のためにこの計画は頓挫した。
統計によると、プリピャチでは、毎年、1500人ほど人口が増えていたが、そのうち、約800人は、地元で生まれた子供たちで、残りは、ソ連国内の他の場所からの転入者だった。
エネルギー産業労働者の町プリピャチの建設は、ヴラジーミル・レーニン名称チェルノブイリ原子力発電所の建設と同じく、1970年に始まった。
プリピャチは、当時の通例に違わず、全ソ連突貫建設の対象であり、国内各地の若者たちが、国家にとって優先的な施設を建設するために集まった。
市内には、5つの学校があり、そこでは、6千人以上の生徒が学んでいた。
原子力産業従事者の町は、同名のプリピャチ川の岸辺に創建された。
プリピャチっ子たちの暮らしは、市民の大部分がチェルノブイリ原発で働いているということを別にすれば、ソ連の他の都市のそれとさして変わらなかった。
食料品の供給の状況も良好だった。
市民の安らかな生活は、4月27日の白昼、避難の勧告によって断ち切られた。14時、バスが、家々を巡り、警察の護衛のもとでプリピャチの住民を運び出しはじめた。最初は、一時的な避難という話だったが、住民らは、後にしてきた自宅へはついに戻れなかった。
チェルノブイリ原発の事故すなわち4号炉での爆発は、1986年4月26日の未明に起こった。爆発の犠牲となったのは、二人だったが、その後、放射線症により何十人ものチェルノブイリ原発の作業員が亡くなった。
プリピャチとその周辺の居住地から住民が避難させられると、原発の周りに半径30キロメートルの立ち入り禁止区域が設けられた。
爆発によって破壊された4号炉は、特別のコンクリート製の「石棺」によって閉鎖され、残りの3つの原子炉では、放射能の除染が実施された。

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