宮廷画家が描いたロマノフ家の秘められた日常

皇族の生活を描いたこれらのユニークな絵は、ミハリ(ミハイル)・ジチの作品である。
皇族の生活を描いたこれらのユニークな絵は、ミハリ(ミハイル)・ジチの作品である。彼は19世紀後半、皇帝一家の儀式、娯楽や家族行事を絵として記録した。
通常宮廷画家や記録係は、外国人に与えられた職業であった。ミハリ・ジチの他には、ルイ・カラヴァク、ヨハン・ゴットフリート・タンアウアーや、エルミタージュ初のコレクションをアレンジしたゲオルグ・クリストフ・グルースなど、数多くの外国人がいた。
ミハリ・ジチはハンガリーの高貴な家に生まれ、ロシアで画家として活動していた。ブダペストで高等学校と大学を卒業した彼は、同地でイタリア人画家マロストーニに画法と絵画を学んだ。その後彼はウィーン美術アカデミーに留学し、フェルディナンド・ワルトミュラーに師事した。
ウィーンの展示会で、「聖母像に祈りを捧げる病み上がりの少女」、「瀕死の騎士」(1844年作)や「キリストの磔」など多くの絵画が高く評価され、ジチはエレナ・パヴロヴナ(ロシア大公妃)に招かれ、三女エカチェリーナ・ミハイロヴナの絵画教師となった。
ジチは1847年にサンクト・ペテルブルクに到着した。彼はエカチェリーナ・ミハイロヴナに絵画を教えるだけではなく、ペテルブルグの貴族の家を周り、レッスンをした。
2年後、彼は絵画教師としての職を失い、絵を描いて売ったり、肖像写真を加工したりして、生計を立てた。
この困難な時期、彼はアレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの恩恵を受けた。1858年にサンクトペテルブルクを訪れたテオフィル・ゴーティエは、ロシアの旅に関する本を出版し、その一章でジチについて書いた。このおかげでジチの知名度は上がり、ロシアで再び人気が出た。
1859年にジチは宮廷画家に任命され、1873年まで務めた。この15年間、彼は皇帝の狩りから皇族に親しい人物の風刺画まで、宮廷生活にまつわるありとあらゆる絵を描いた。
宮廷画家になる前の1856年に、彼はアレクサンドル2世の戴冠式を題材とした大規模な水彩画シリーズを描き、サンクトペテルブルク美術院から会員の称号を与えられた。
1869年には彼の個展が開かれた。その5年後、彼はパリへ旅立った。彼はハンガリー政府に依頼され、「ディークの棺桶に花輪を手向けるオーストリア皇后エリーザベト」を描いた。他には、雑誌の挿絵を描くなど、画家活動を続けた。

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