ア ニ メ の 古典
ユ ー リ ー ·
ノ ル シ ュ テ イ ン

「子 供 の 頃 の 誓 い に 忠 実 な 者 は 稀 で す」







 ユーリー・ノルシュテインは、『霧につつまれたハリネズミ』の作者で、世界各国の批評家へのアンケートでは、世界最高のアニメーション映画作者と認められている。そんな巨匠がロシアNOWの単独インタビューに応じ、自身のアニメがはらんだ恐怖、日本への愛、そして「純粋な創作」などについて語ってくれた。

アレクサンドラ・バズデンコワ
 ユーリー・ノルシュテインは、『霧につつまれたハリネズミ』の作者で、世界各国の批評家へのアンケートでは、世界最高のアニメーション映画作者と認められている。そんな巨匠がロシアNOWの単独インタビューに応じ、自身のアニメがはらんだ恐怖、日本への愛、そして「純粋な創作」などについて語って
くれた。

 ユーリー・ノルシュテインは、世界中で知られる『話の話』、『霧につつまれたハリネズミ』などを制作した伝説的アニメーターで、昨年9月15日に75歳の誕生日を迎えている。しかしロシアでは、お祝いは一年間を通して行われるので、お祝いされるご本人に会うのはそんなに簡単ではなかった。

 このアニメーション作家は今日も、モスクワ北部の小さな自分のスタジオで活発に働いている。既に1981年から始めている、19世紀ロシアの作家ニコライ・ゴーゴリの中編小説『外套』に基づくアニメの制作を続けているのだ。ノルシュテインが言うには、自分は現代という時代には生きていないし、またそれに迎合するつもりもないが、ただ好きなことをやっており、それを捨てるつもりはないとのこと。

 休日ごとに、スタジオの入り口の間は、訪問客でごった返している。彼の本を買ってサインしてもらいに来る人もいれば、単にレジェンドを見に来る人もいる。アトリエは無数の小物、ガラクタでいっぱいだ。はさみ、メモ、子供の絵、フック、安全ピン、針金、箱、ケース、そして何百冊もの本。「映画の神はディテールに宿る」とノルシュテインは考えている。
 ―ノルシュテインさんのアトリエのサイトにはこう書かれています。「普段の一日のスケジュールはこんな感じ。スタジオのリーダー、ユーリー・ノルシュテインが怠け者や好き勝手なことをしている者を片っ端から、その後頭部をピシャリとやり、部屋の隅に立たせる。そして、あまり…にならないようにするわけだ。こういう"有益な"事柄の合間には、スタジオの全員がファンの皆さんの健康のために乾杯し、つまみを食べる。もし時間が余れば、映画を撮り、ファンと交流し、同業者や友人達と会い、展覧会を組織し、本を書く。要するに、ロシアアニメーションの生命の樹が枯れないように、頑張っている」。真面目な話、現在あなたのスタジオはどうやって資金を得ているのですか?

 仕事をやって生計を立てているんです。私たちは自分で自分のためにお金を稼がねばなりません。国家に頼んではならないのです。国家は私にとっては、まったくの赤の他人です。赤の他人に金を与えられたくありません。私はあの入札というのが好きではありません。今日では国中に広まっていますけどね。映画もそうなりました。私はこういう流れに加わりたくないのです。自力でサバイバルするように努力しています。しかし、お金を稼ぐためには、何かを印刷しなければなりません。それで、本やポスターを印刷しているわけです。こういう仕事は、自分の本来の活動にはなかったこと、つまり商売を要求します。30年ほど前なら、商売せざるを得ない状況に陥るなんて想像さえできませんでした。もっとも、私たちの製品は良質ですから、その意味では、私たちは公衆の趣味を損ないはしなかったと、誰の前でも明言できます。
ノルシュテインの仕事場は、スタジオ全体とそこにあるものすべてだ。そこには"創造的な無秩序"がある。
 ーということは「純粋な創作」の概念が変わってきたということですか?

 -創作とは、概して言えば、人が自分自身のなかに切り開く道のことです。その人だけが道がどこに導くか予想することができます。創造とは、その人の仕事と周囲の空間とを結ぶことなんですね。そしてこの空間には、観客や読者だけが含まれているのではありません。私にとっては、例えば、木を眺めることも、木といっしょに行う、共同の創造活動なのです。

 創作とはつまり、自分が他者と結びつくための方法、手段であるということです。これはたぶん造形美術や芸術一般ではなく、例えば、旋盤工の手仕事などを例にとったほうが分かりやすいかもしれませんね。彼もまた創造的な人間です――ただそれは、自分の仕事が他者の仕事とつながらねばならないことを彼が知っている限りにおいてですが。想像してみてください。彼が何か部品を作り、他の旋盤工も、フライス工もそれぞれに部品を作った。ところが後で、それらの部品が互いにうまく合わなかった、と。ということは、そこには創造性がなかったわけです。あの「神による融合」が必要なのです。まさにこれこそが、歓喜と魂の平安の瞬間を与えてくれるんです。

『霧につつまれたハリネズミ』
 ―現代アニメの世界に「純粋な創作」はまだありますか?

 ー多分あるでしょう。ソ連・ロシアのアニメには「遺伝的耐性」があるという考えがまだ残っていること一つをとってみても。才能は賄賂で手に入れるわけにはいきません。才能はあるかないかのどちらかです。これは汚職が不可能な領域です。もちろん、汚職は芸術の分野にも存在していますが、しかしその結果は、スクリーン上にすぐにもろに出てしまいますからね。ここで汚職が問題なのは、ある人間が誰かから汚い金を受け取ったから、ということではなくて、その人間が自分で選んだ歪んだ秩序に従って、人生において行動し始めたという点にあるのです。または、ある人が猛烈に仕事せねばならない行政官や役人のポストに任命されたにもかかわらず、芸術に携わり続けているという点にね。そうなると、人はすぐに自分を損なってしまい、創造は一巻の終わりです!
 ―あなたは世界中でレクチャーをされていますが、才能ある若者は多いですか?

 ー才能のある人は多いです。人生の最初の時期つまり3歳頃を見れば、あらゆる子供は、信じられないほど才能があります。すべての子供がです。才能のない子供などいません。なぜなら彼らは人生に対して感動しているからです。彼らは何でも新たに発見し、すべての日が彼らにとっては新しい日だからです。だから彼らは、眠るのを怖がり、目が覚めるときには、すぐにすっきり目覚めてしまって、こう自分に言うのです。「よし、この日を迎える準備はできた!」。ところが、こうしたことは次第に人間から消えていくのですね。

 私は子供の写真が大好きです。3~4歳ぐらいの子供が立って抱き合っているような。これが本当の兄弟愛というものですね。

 なるほど、子供も偽善者であることはあり得ますが、でも嘘つきではありません。想像力豊かなだけで、これはとても良いことです。大人もまた、その意味では、嘘つきであっても空想家であるかもしれません。それなら、創造性がまだ残っているでしょう。

 私は詩人アレクサンドル・プーシキンにまつわるちょっとしてエピソードが大好きです。あるとき、ヴャーゼムスキー一家(ロシアの詩人ピョートル・ヴャーゼムスキーの家族――ロシアNOW注)を詩人が訪れたとき、夫妻は留守だったのですが、絨毯の上で息子が遊んでいるのが目に入りました。夫妻が戻ってきたときに彼らが目にしたのは素晴らしい光景でした。プーシキンと自分の息子が四つん這いになって、お互いに唾をひっかけ合っているのです。お分かりになりますか?これは子供の魂をもった偉大な人間だけができることです。もしこうしたものが残っていれば、創造力も残っているのです。
 ―たぶん、あなたは外国に移住して、そこで働く可能性もあったと思うのですが、なぜそうしなかったのですか?

 ー私はそこではよそ者ですし、そこは異国ですからね。外国に行って自分自身を見出す、自己実現するなんていうのは神話ですよ。なるほど、外国に移住した人は、書いたり本を出したりする可能性がありましたが、それも幸運に恵まれればです。すべての才能ある人間がついているとは限りません。もちろん、ヨシフ・ブロツキーとかセルゲイ・ドヴラートフのような巨大な個性もいましたよ。彼らはロシアでも海外でも傑出した人間でした。しかし、彼らが大きな幸福に包まれて生活できる可能性があったのは、やはりこの国であって、海外ではないでしょう。なぜなら海外で何があったとしても、二人とも空間の欠如に苦しんだからです。それはつまり、自分に身近な「叫び」が聞こえる空間です。彼らの人生は難しかったんですよ。

 ―あなたがまだ若い頃、日本の詩にのめり込んでいたことを知っています。それはあなたに影響を与えましたか?

 ー日本がこんなに私に影響するなんて予想もできませんでした。私は、偶然、1960年代の初めに、12世紀頃からの日本の詩歌を収めた本を買ったのです。そしてそれを常にひも解き、次第にその詩の内面的状態に入り込んで行ったのです。これは詩的な思念で、他の国の詩だと、そういう状態が訪れたり、訪れなかったりしました。年月とともに私は、日本の絵画、版画、浮世絵がどんなものか目の当たりにするようになりましたが、これらの世界にもやはり、意識的に入り込まなければなりませんでした。これは最も難解な芸術の一つですが、それと同時に、最も単純なものの一つでもあるのです。

 そのメッセージが単純であるのは、概して東洋は、プラグマティックなヨーロッパとは異なり、ある考えを底の底まで掘り尽くそうとはしないからです。私の日本への愛着は、映画『アオサギとツル』にも現れています。もっとも、そこには日本との直接の結びつきはまったくないのですが。でも、その空間構成と息吹は、もちろん、日本の詩歌からインスパイアされたものです。『霧につつまれたハリネズミ』については言わずもがなですね。私は原作のおとぎ話を、映画のためにかなり作り変えましたが、でもそれを、私の日本の詩への愛着と何らかの形で結びつけることができると感じたのです。どうやって?そのときはまだ分かりませんでしたが。


 ―アニメをどう見ていますか?

 ー何とも思っちゃいません。まあ、アニメはアニメで、私には関心ないですよ。

 ―宮崎駿はどうですか?

 宮崎なら話は別で、芸術を創っています。同時に商売もやっていますが、創造に携わっており、真の芸術家です。そして、人間としてもとても立派です。私にとっては、多分こちらの方が重要ですね。宮崎は、「子供たちが木登りをしたり、焚き火を炊いたりしなくなった」と言って、すごくがっかりしていました。創造的な人間の考え方とはそうしたものです。そういう人間は、現代の生活を本当に憂いているのです。

 ―『霧につつまれたハリネズミ』の秘密はどこにあるのでしょう?これは本質的に子供のアニメではなく、深い哲学的な映画ですね。でも子供達は大好きです。

 最初は、子供たちはそんなに好きじゃなかったのです。今でこそ、それには別の性質があるように見られていますが。この映画が封切られたときは、私は親たちに文句を言われたものです。「あんたは子供たちを怖がらせている」とね。実際、子供たちは怖がってました。まだ、この映画にある思考の形式のなかに入り込んでいなかったからです。でもその後この映画は、独自の光を放ちつつ、子供たちの意識に無意識的に作用するようになりました。私はそれを、自分の孫娘で目の当たりにしたのです。
 
 彼女は、2歳半のときは、この映画を見て幸せいっぱいでしたが、3歳半になると、つまりいろんな「ホラーもの」が現れてくるとすぐに、見なくなってしまいました。でも、しばらくしてホラーブームが去ると、また見るようになりましたね。まあ、ホラーといっても、現代のそれに比べれば、ロマンチックなおとぎ話みたいなものでしたが!

 今日では、真に優れた映画の質を気にするようなプロデューサーは滅多にいません。この「真に優れた質」というときに私が念頭に置いているのは、『アバター』や『ヴァイキング』のようなものではありません。私が言うのは、思考、同情、追体験、人生知などに貫かれた映画であって、4D効果を売り物にしているようなものではありません。その意味で私は、今の時代にうまく合わないのです。


テキスト:アレクサンドラ・バズデンコワ
編集:オレグ・クラスノフ
写真提供: マルク・ボャルスキ、 ロシアNOWへの特別寄稿
デザイン&レイアウト: スラヴァ・ペトラキナ、アレクサンドラ・バズデンコワ、ポリーナ・コルティナ
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