ソ連時代のテーマパーク80年史
 80年前、モスクワで国民経済達成博覧会(VDNKh)プロジェクトが着手されたが、これはソビエト連邦で最も壮大な展示施設で、この国の経済的偉業を披露するものだった。


 巨大なスターリン様式の建築と、ゴシック様式からアールヌーボーに至るまでのありとあらゆる歴史的様式が盛り込まれた折衷主義的様式を特徴とするこのセンターのかつての栄華は、今日でも来訪者を驚嘆させている。


 ロシアNOWは、この「世紀のプロジェクト」の歴史的深層を探り、今日の建築が成すアンサンブルに読者をご招待する。


1930年代
 力強く、大規模な「全ソ連農業博覧会(VSHV)」(後に「経済達成博覧会(VDNH)」と改名)のプロジェクトは1935年、積極的に進められた。当初は1937年のソ連政府樹立20周年の開幕を目標としており、開催期間も100日の予定であった。だが記念日までに建設が終わらず、工期はさらに2年延び、開催期間およびパビリオンの保存期間も5年間と大幅に延びた。
 左から右、上から下へ:パビリオン「機械建造」のそばのスターリン像、1939年「全ソ連農業博覧会(VSHV)」開会、1939年パビリオン「ボルガ川流域」
 VSHVは1939年、華々しく幕を開けた。ここでアピールされたのは、豪華さと国内全土のコルホーズの成功。パビリオンは地理別に展開され、ウクライナ共和国、白ロシア共和国、アルメニア共和国などのソ連の共和国の経済発展が来場者に紹介された。
 上から下、左から右へ:リトアニア共和国、グルジア共和国、カザフ共和国のパビリオン
1940年代
 博覧会は1941年6月までソ連各地からの来場客を受け入れていたが、この時にはモスクワで最も人気の高い場所の一つとなっていた。第二次世界大戦の勃発で、VSHVは閉鎖され、パビリオンの一部は軍事的な施設に変わった。戦中は軍需・修理工場や諜報学校などが敷地内にあった。
モスクワ防衛、VDNH、ナウム・グラノフスキー、1941年
1950年代
 戦後、全体的な改築が始まり、1954年近くになってようやく完了した。その4年後、ソ連邦閣僚会議は、決議「全ソ連工業・農業・建設博覧会をソ連経済達成博覧会に統一することについて」を採択。この統一は、ソ連初のアメリカ見本市「アメリカの工業生産」を1959年に実施するために必要だった(見本市の会場はソコリニキ公園だったが、モスクワ市全体に豪華な装飾が施された)。ソ連見本市も、アメリカ・ニューヨークで開催された。
VSHV、ヤコフ・ハリプ、1954年
 左から右へ:VSHV、ヤコフ・ハリプ、1954年、
 モスクワ青年・学生祭、VDNHのウクライナ代表団、アルカディー・シャイヘト、1957年、VSHV、ヤコフ・ハリプ、1954年

1960-1970年代
 1963年、ソ連邦閣僚会議は、決議「ソ連経済達成博覧会の営業再調整について」を採択。博覧会は年中無休となり、ソ連パビリオン、国際農業機械博覧会パビリオン(後の「化学工業」)、「消費財」パビリオンなど、新しい施設が敷地内に登場した。
 左から右、上から下へ:VSHV、「ソ連外国貿易・国内商業人民委員部」パビリオン、
「フラドプロム」パビリオン、
「機械化」パビリオン、
「グラヴミャソ」パビリオン

1980 - 1990年代
 ペレストロイカ後の1980年代末、施設の多くは店に変わり、一部は倉庫に改造された。国からの財政支援がなくなり、VDNHは巨大な放置市場になってしまう。1992年、「全ロシア博覧センター(VVC)」に改名される。2014年になってようやく、センターが再び発展し始めた。同時に、名称も以前のVDNHに戻された。
 VDNHは、「スターリン擬古典主義(スターリン様式)」と「モダニズム」のアヴァンギャルドの要素を一つにした、貴重なソ連建築群である。

 建築家オレグ・ラスポポフ氏はこう話す。「VDNHは20世紀のソ連(ロシア)建築の百科事典と呼ぶことができる。この建築群の折衷主義は比類なき特徴。有名なベネチアのパビリオンからインスピレーションを受けているVDNHは、ウラジーミル・シチュコ、ウラジーミル・ゲリフレイハ、アナトリー・ジュコフ、レオニード・ポリャコフなど、当時の多くの一流建築家の努力と協力によって築きあげられた」

「中央」パビリオン、VDNH
 VDNHのマスタープランを作成したのは、建築家ヴャチェスラフ・オルタルジェフスキー。1938年に逮捕され、収容所送りになっている。1920~30年代のアヴァンギャルド様式の正面入り口を設計したのも、オルタルジェフスキーである。

 だがモダニズムのプロジェクトが、当時流行していた巨大なモニュメントではなく(オルタルジェフスキーの門は荘厳な門ではなく、柵のようだった)、また本人が逮捕されたことで、解体されてしまった。結局、課題はポリャコフに課された。ポリャコフは、現在北の入り口を飾っている、大きな3アーチの門を建設した。

 このアーチ門は時間の経過とともに、豪華さが足りないと考えられるようになり、1954年の新装オープンまでには正面入り口の場所に、建築家インノケンチー・メリチャコフの「トラクター運転手とコルホーズの女性」像の立つ5アーチの凱旋門が設置された。
レオニード・ポリャコフ作VDNH正門入り口、1940年代、VDNH正門入り口、2015年
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 1937年パリ万博でソ連館を飾り、20世紀最大の彫刻と言われた「労働者とコルホーズの女性」像は、1939年に現在の北の入り口の前に設置された。労働者とコルホーズの女性像の33メートルの台座の内部には、「労働者とコルホーズの女性」センターがある。
労働者とコルホーズの女性」像、1940年代と1954年
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 VDNHの最も有名かつ印象的なパビリオン「中央」または「メイン」は1954年、シチュコおよび同じく建築家のエヴゲニー・ストリャロフの設計によって、それまで木造建築のあった場所に建てられた。

 高さ90メートルの3層の建物はスターリン様式になっており、円柱、労働者とコルホーズの女性像、銅の国章、星のついた黄金の尖塔がある。パビリオンの展示物は、ソ連の歴史と偉業に関するもの。階段状になっている台にレーニン像とスターリン象があったことは驚きではない(スターリン像は1960年代初めに撤去されている)。
「中央」または「メイン」パビリオン、1950年代と2015年
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 もう一つの象徴的なパビリオン「アルメニア」(以前の名称は「シベリア」、「ロシア共和国の農業」、「石炭産業」)で、VDNHの最も記念碑的な建物の一つと考えられている。

 1954年に建築家のR.クリクスとV.タウシカノフの設計にもとづいて建設された、シベリアの広大さを象徴する施設だった。大きな円柱はシベリアの労働者の自然主義的な像で装飾され、建物の側面はシベリアの自然の豊かさを象徴する植物と動物のオーナメントで装飾されている。

 建物は六角形で、中央展示ホールは巨大なドームで覆われた中庭という原則にしたがってつくられている。度重なる名称や所有者の変更を経て、2003年、パビリオンはアルメニアに貸し出された。
「アルメニア」(旧「シベリア」)パビリオン、1950年代と2015年
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 パビリオンのほとんどが、時代の建築の流行に沿って、何度か改築されている。大きく変わったのは1950年代終わりから1960年代初めにかけて。パビリオンがそれぞれの担当省庁の管理下におかれ、当時の経済の需要に応じて改修された時である。

 この時に、パビリオン「花卉園芸と緑化」、パビリオン「冶金」(旧「カザフ共和国」)、パビリオン「宇宙」(旧「機械建造」)などの、有名なモダニズムの建物が登場した。ほとんどの改築で、以前の様式的"ミス"が修正された。
ロケット「ボストーク」と「宇宙」パビリオン、2015年
「原子力エネルギー」、「文化」(旧「ウズベク共和国」)、「中央」パビリオンの一部、2015年
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 建築家アレクセイ・タツィーのパビリオン「ウクライナ」は1940年代末の時点で、厳粛さと壮大さが不足しているとして、当時のウクライナ共和国共産党中央委員会第1書記だったニキータ・フルシチョフから厳しい批判を受けていた。改築によってセラミックの外壁には植物のレリーフと壁柱が加えられ、建物自体はスタハーノフ運動者の像、ステンドグラス、黄金の尖塔で飾られた。
「ウクライナ」パビリオン、1940年代と2015年
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 パビリオン「ボルガ川流域」は4回改築されている。1954年にスターリン様式に変えられ、その5年にモダニズムに変えられた。1958年に「無線電子」と名称の変わったこのパビリオンの外壁は、そのために金属パネルで覆われた。VDNHの幹部は昨年、このパビリオンの外観を当初の外観に戻す決定を行ったが、建築家や都市保護家などからの批判を受けた。
 建築史学者アンナ・ブロノヴィツカヤ氏はこう話す。「パビリオン『無線電子』は、VSHVからVDNHに変わって最初に改築された。博覧会の名称をかつてのVDNHに戻すのに、このような歴史的建造物をなくしてしまうなんて。これはスターリン時代後の初期のモスクワ現代建築作品。外壁のアルミ構造は、航空機建造の実績を建築に応用した、当時としては斬新なケース。これだけでも保存の価値はある」
「無線電子」パビリオン改築の一部、2015年、
「無線電子」(旧「ボルガ川流域」)パビリオン、2000年代と1954年
「1954年のパビリオン『ボルガ川流域』はスターリンを称賛するものだった。外壁にはスターリンが参加した内戦とスターリングラード攻防戦の2つの戦いの絵が描かれた。『ボルガ川流域』が再設計されたのは、次の最高指導者がこのテーマを外したかったこととも関係あると思う」 とブロノヴィツカヤ氏。
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 VDNHは1950年代半ば、有名な噴水「人民の友情」(メインの噴水)、「黄金の麦穂」、「石の花」という新たなシンボルを獲得した。この3つの噴水の作者は建築家コンスタンチン・トプリゼ。

 1955年以降は、VDNHの建物のほとんどに共通していた豪華なレリーフ彫刻、装飾的な要素、壮大さが、ソ連国民の進歩とニーズに反する「建築的な無駄」とされた。とはいえ、幸いなことに、これらの豪華な装飾が破壊されることはなく、現在まで多くがほぼ完全に保存されている。
噴水「人民の友情」、2015年
 
 
 
 
噴水「黄金の麦穂」、2015年
 
 
 
 
噴水「石の花」、2015年
 
 
 
 
都市伝
 VDNHの75年の歴史の中で、無数の都市伝説が生まれたが、多くはかなり現実的である。例えば、昔からモスクワに暮らす住民は、メイン・パビリオンの下にスターリンの執務室いわゆる「スターリンの地下壕」があるという話をするのが好きだ。

 ブロノヴィツカヤ氏はこう話す。「実際には、変わったものや神秘的なものなんてここにはない。他の人口集中地域と同様、VDNHにも確かに防空壕というものはある。ただ、スターリンのために特別に建設された地下壕があるというのは、少なくとも根拠のない噂」

 他にはこんな都市伝説もある。噴水「人民の友情」の16体の女性像を当初、宝石で装飾することになっていた。だが建設を監督したラヴレンチー・ベリヤは、工期が長引くことを悟り、建設を最大限に簡易化させたかったために、金箔で覆うよう指示するにとどめたという。
「中央」パビリオンと噴水「人民の友情」の一部、2015年
VDNHの未
 2014年、VDNHが連邦からモスクワに譲渡され、1年あまりで20棟のパビリオンの外壁、正門入り口および南門入口が刷新された。

 メイン・パビリオンの改修の際、撤去されたと考えられていた、彫刻家エヴゲニー・ヴチェティチの高浮き彫り「ソ連の国民と世界の旗手に栄光あれ!」を、作業員が発見した。この大きな高浮き彫りは、半世紀以上も偽壁の後ろに隠れていた。

 75周年に向けて以前のVDNHの名称に戻され、敷地内の整備も始まった。植物園およびオスタンキノ公園を吸収したことで、敷地面積は520ヘクタールまで拡大した。
 VDNHの整備計画は10年。総額1630億ルーブル(約3050億円)のプロジェクトは、さまざまな層の来場者に合わせたテーマパーク6ヶ所の創設も含んでいる。
 昨年、増改築中の「科学技術博物館」とその企画展「ロシアは自力で」が、暫定的にVDNHに入った。
 将来的には、VDNHがモスクワの博物・美術館マップの重要なポイントになるだろう。9月22日には第6回「モスクワ現代美術ビエンナーレ」もここで開幕する。中央遊歩道はお祝いやお祭りの重要な会場となり、その西側部分にはインタラクティブなアトラクションや観覧車のある「未来園」が創設される。また、子供と大人のための教育センター「工芸園」、展示センター「エキスポ」、水族館(建設はすでに完了)、果樹園もVDNHにお目見えする。
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Texts by Olga Mamaeva
Edited by Oleg Krasnov and Alastair Gill
Photo credits: VDNKh photo archive, Lumiere Brother's gallery, Elena Kazachkova
Photo edited by Slava Petrakina
Videos by Anna Levicheva, Ruslan Faizullin, Gray Lockhart
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