世界史上空前絶後の女性エースパイロット:二人の若いソ連女性の物語

エカテリーナ・ブダノワとリディア・リトヴャク

エカテリーナ・ブダノワとリディア・リトヴャク

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 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの軍用機を撃墜したのは男性だけではなかった。2人の若いソ連女性は、世界史上2人しかいない女性エースパイロットとなった。

 19416月に大祖国戦争(独ソ戦)が始まったが、その最初の23か月は、ソ連空軍にとってはまさに悪夢のごとき災厄だった。飛行場に待機していた多数の戦闘機、軍用機が完全に不意を突かれ、ナチス・ドイツの猛攻撃によって抹殺されていった。

 幸いにも離陸できたソ連空軍のパイロットたちも、まだ経験が浅かった。それが、バトル・オブ・ブリテンをはじめとする激戦をくぐり抜けてきたドイツのエースたちと戦わなければならなかった。

 おまけにソ連のパイロットは、実戦配備されたばかりの新しいYak-1MiG-1MiG-3などの戦闘機に習熟するだけの十分な時間がなかったから、被撃墜率は非常に高かった。

 こうした危機的な状況にあって、ソ連指導部は、女性を空軍に召集し、女性パイロットによる特別部隊を創設することに決めた。こうして、「夜の魔女」として知られる、第46親衛夜間爆撃航空連隊(当初の部隊名は第588夜間爆撃連隊)が結成された。

 ソ連の2人の若い女性、リディア・リトヴャクとエカテリーナ・ブダノワも、世界史上空前絶後の女性エースパイロットに成長し、不滅の足跡を残した。今日ここでご紹介するのは、その話だ。

 

「白百合」

リディア・リトヴャク

 リディア・リトヴャクは、子供のころから飛行機が大好きだった。14歳のときに航空クラブで訓練を始め、15歳で初飛行している。

 4年後、大祖国戦争が始まると、リディアは自分のなすべきことを悟り、空軍に加わった。

 1942年に彼女は初めて実戦を目の当たりにした。第586戦闘機航空連隊の一員としてだった。男性のパイロットたちが甚大な犠牲を出した後で、3つの女性航空連隊が結成されたのだが、第586戦闘機航空連隊はそのうちの1つだった。ここで彼女は瞬く間に最高のパイロットの1人になり、間もなく、最も重要かつ危険な課題を遂行していた連隊に移された。

 リディアが挙げた戦果の中には、爆撃機のJu-88Do-217、戦闘機Me-109、さらには観測気球まであった。168回出撃し、撃墜数は個人スコアが12、協同スコアが4。これにより、現在にいたるまで史上最高の女性エースとなっている。

 彼女のYak-1の胴体には、撃墜した数の星に加えて、白百合が描かれていた。これは「フリーハンター」(ロシア語で「オホートニク」)のシンボルだ。つまり、敵機を自由裁量で索敵し、攻撃、撃墜できる、精鋭パイロットの印である。

 大祖国戦争中のソ連のエース、アレクサンドル・ポクルイシキンによると、「フリーハンターは、戦闘機乗りにとっては最高の戦いの形」。リディアはこうした名誉を与えられたわけだ。彼女のコールサインは「百合」または「白百合、44」。44は彼女の機体番号だった。

 

最後の出撃

 19433月、リディアはやはりエースパイロットであったアレクセイ・ソロマチンと結婚する。だがやがて、次々と不幸が彼女を襲い始める。まず、夫のアレクセイが、5月21日に彼女の目の前で事故死する(死後にソ連邦英雄の称号を授与)。その後、7月に彼女の親友、エカテリーナ・ブダノワが空戦で戦死。

 これらはすべて、リディア自身にとっても悪い予兆となった。194381日、ドンバス(ウクライナ東部)での制空権をかけた戦いで、4度出撃。この日も敵機を2機、単独で撃墜するが、4回目の出撃からはついに帰還できなかった。8機のMe-109を相手に戦い被弾した彼女の機体を見たとの証言もある。わずか21歳だった。

 撃墜された機体も遺体も確認できず、行方不明となったので、ソ連邦英雄の称号は与えられなかった。当局が、リディアが捕虜になったことを恐れたためだ。

 1979年になって偶然、遺骨収集のグループが、共同墓地でリディアの遺体を発見し、1990年に、ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフによる特別令で、ソ連邦英雄の称号を授与された。

 

女性エース№2

エカテリーナ・ブダノワ

 エカテリーナ・ブダノワはリディアの無二の親友で、ソ連の第2の女性エースであり、266の戦闘ミッションを遂行し、公認撃墜機数は11機(個人撃墜6機+協同撃墜5機)。

 リディアと同じくエカテリーナも、第586戦闘機航空連隊の一員として、キャリアを開始した。2人は会うとすぐに親友になり、最期までともに戦った。2人の運命は多くの点で似ていた。

 ソ連空軍のエース、ウラジーミル・ラブリネンコは、2人の女性エースについてこう回想する。「カーチャ(エカテリーナ)は陽気で元気だった。リリア(リディア)・リトヴャクは反対で、思慮深くて寡黙だった。2人の女の子は無二の親友だったが、カーチャのほうがリードしていた」

 あるとき、「フリーハント」でエカテリーナは、偵察機Focke-Wulf 189を撃墜した。これは、ソ連のパイロットたちは難しい獲物だと考えていた。

 エカテリーナの最後の空戦は1943719日で、ドンバスのアントラツィト市付近だった。彼女とリディアは、対地攻撃機Il-2を護衛していたところ、Me-109の攻撃を受けた。エカテリーナは被弾しながら何とか着陸したが、負傷のため死亡した。ノヴォクラスノフカ村付近で埋葬。26歳だった。

 リディア同様に、ソ連邦英雄の称号は与えられなかった。戦闘中に行方不明になったためだ。

 1993年、エカテリーナ・ブダノワはロシア連邦英雄の称号を授与された。

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