電気梨、Hな苺、苦悩の玉葱

ニヤズ・カリム

ニヤズ・カリム

夏が訪れ、そろそろ収穫が始まる。自然の恵みが持つ「2つの意味」を説明するにはぴったりの季節だ。

エゾイチゴと極楽 

 ロシア語でもっとも良い意味を持つ漿果はエゾイチゴとサクランボ。快適な生活のことを「生活ではなくて、エゾイチゴ(Ne jizn', a malina)」という。極楽極楽という意味である。何らかのプロセスが計画通り、効率的に完了することは、「ケーキの上のサクランボ(Vishenka na torte)」という。

 魅惑的な漿果はイチゴ。イチゴとはエロティックな何かのシンボルで、大人向けの印刷物や動画がそのように呼ばれる。ニコライ・ゴーゴリの「死せる魂」では、「ちょっくらイチゴを摘む(popol'zovat'sya nascet klubnichki)」という表現に出会う。

 ツルコケモモは自慢げで嘘っぽい小話や作り話のことである。見え透いた嘘のプロパガンダの話が出ると、「生い茂ったツルコケモモ(Razvesistaya klyukva)」と言われる。愚にもつかないという意味だ。良くない人々がいて、それぞれに大差のない場合は、同類という意味の「同じイチゴ畑の(Odnogo polya yagoda)」と言う。

 人が群れて非常に手狭な場合は、立錐の余地もないという意味の「リンゴの落ちる場所がない(Yabloku negde upast')」と言う。ギリシャ神話の「不和のリンゴ(yabloko razdora)」すなわち不和の種は、不一致や対立の原因が何なのかについて話す時の定番の表現だ。「洋ナシがなっているけど、食べれない。これなーんだ?」という洋ナシが出てくる子どもの伝統的ななぞなぞがある。答えは電球。形が洋ナシに似ているためだ。現代の電球は形が変わっているので、なぞなぞはあまり成立しない。

パイナップルと革命 

 パイナップルは昔から贅沢のシンボルと考えられている。20世紀初めの詩人の作品の中で、定番となった表現を見つけることができる。イーゴリ・セヴェリャニンは「シャンパンづけのパイナップル!シャンパンづけのパイナップル!...私はノルウェーの何かにどっぷりつかる!私はスペインの何かにどっぷりつかる!」とパイナップルを賛美し、ウラジーミル・マヤコフスキーは「パイナップルでも食え、えぞやまどりでも噛め、お前の最後の日が来るぞ、ブルジョアよ!」とプロレタリアート的にこれを否定した。

 バナナは20世紀末近くになって、比喩的に使われるようになった。学校の成績で2を取ることが(5段階評価で5が最高)、バナナと呼ばれていた。1980年代の一時期、バナナはズボンのシルエットも意味していた。確かにバナナのようにに見えた。

 カボチャとカブは頭を意味する言葉。頭をどこかにぶつけたら、「カボチャにくらった(poluchil po tykve)」ということである。「カブを掻く(cheshesh' repu)」とは、何らかの重要な人生の問題についてすっかり頭を悩ませているということである。カブはその昔、初歩的、また単純な何かのシンボルであった。「蒸しカブより簡単(Prosche parenoi repy)」とは朝飯前という意味である。

 

トウモロコシと飛行機 

 キャベツはお金を意味するスラング。また「子どもが見つかる」場所でもあり、子どもが「赤ちゃんてどうやってできるの?」と聞いてきたら、このように説明する。ニンジンはあまり働きたがらない人に仕事をさせる刺激物の意味で使われる。「ニンジンを見せる(pokazyvayut markovku)」または「ニンジンで刺激する(draznyat morkovkoi)」など。タマネギは「タマネギの苦悩(gore lukovoe)」のように使われる。これは物のわからない、嫌なことばかりもたらす人、ドジな人のことを意味する。ジャガイモでは人間の外見を表現することができる。形の整っていないデカ鼻は「ジャガイモ鼻(nos kartoshkoi)」と言う。

 トウモロコシは農業に使われる特別なタイプの軽飛行機のことである。また1960年代初め、ソ連のニキータ・フルシチョフ書記長にはこのような皮肉的なあだ名がつけられていた。フルシチョフ書記長が食糧問題の解決にはトウモロコシが役立つと考え、国中に植えたためである。当時の人気のプロパガンダは「トウモロコシは平原の女王」であった。

              

ワサビとオジサン 

 ワサビは複数の慣用句で使われている。これはやや乱暴な表現である。若くない男性に対する軽視的な呼び方に「古いワサビ(staryi hren)」がある。他にも「何もない(ni hrena net)」、「お前は何も得られない(hren tebe)」などのように、ワサビ(hren)が表現に入ってくる。だが「こりゃ驚いた(ni hrena sebe)」とは不思議なことに悪い意味ではない。若者のスラングではトウガラシも使われる。「屈強なトウガラシ(krutoi perets)」とは魅力的な若い男性のことである。

 エンドウ豆にも異なる比喩的な意味がある。「壁にエンドウ豆(kak ob stenku goroh)」は、長い時間をかけて無駄な説得をしようとすることを言う。馬耳東風である。ふるまいがおもしろくて笑ってしまう人のことを道化師(shut)と呼ぶが、この特徴を侮蔑的に表現する場合は、「エンドウ豆の道化師(shut gorohovyi)」のように言う。これは物笑いの種ということである。何かがかなり前に起こったと説明したい時は、「これがあったのはエンドウ豆のツァーリの時代(Eto bylo pri tsare Gorohe)」と言う。

 何もない状態で取り残されることは「豆の上に残る(ostat'sya na bobah)」、強くののしる、また批判することは「ナッツに与える(dat' na orehi)」、成果を利用することは「実を収穫する(pojinat' plody)」などと言う。

 皆さまにもっとエゾイチゴがありますように、またカボチャをお大事になさってください!

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