アレクサンドル・ワノフスキー

アレクサンドル・ワノフスキー

アレクサンドル・ワノフスキー

この人物について十分に物語る最もよい方法は、テレビドラマを撮ることだ。こういう形式だけが、彼の多彩すぎる人生をどうにか詰め込むことができる。貴族として生まれ育った幼年時代、革命家として逮捕、服役をくり返した青年時代、その後の精神疾患と日本行き、シェイクスピアと日本の古代文化に傾倒した壮年時代、ユニークな宗教的、哲学的探求…。

 アレクサンドル・ワノフスキーは、1874年、トゥーラ県チェルニの軍人の家庭に生まれた。幼年学校とキエフの士官学校を卒業すると任官はせずに、兄の影響で、世紀末のロシアで広まっていた革命思想に夢中になり、プロの革命家として専制打倒を目指すに至った。

 

レーニンとの親交 

 1898年には、ロシア最初のマルクス主義政党である「ロシア社会民主労働党」の創設に参加した。ミンスクで地下で創立大会が開かれた際には、9人の代議員のうちの一人だった。この政党は、19年後に社会主義革命を起こすことになる。

 大会直後、ワノフスキーは逮捕され、北方に流刑になった。釈放されるや革命運動に身を投じ、またも逮捕。懲役2年の判決を受け、服役した。

 刑期が終わったのは1905年で、第一次革命が始まっていた。ワノフスキーは、モスクワとキエフで武装蜂起の指導者の一人となり、モスクワでは、テロリストの部隊を率いてクレムリンの襲撃を試みた。

 だが、市街戦による大量の犠牲者はワノフスキーを衝撃を与えた。彼は、これほどの犠牲を払ってまで政権を転覆しようとは思わなくなり、次第に革命闘争から離れるようになった。

 もっとも、その後も数年間は地下に潜伏しつつ、革命理論に関する論文を書いたり、年少の友であるウラジーミル・レーニンと何度も会ったりしていた。ヨーロッパに亡命していたレーニンの許にしばらく身を寄せていたこともある。

 しかし1912年には、ワノフスキーは正式に革命運動から脱退し、政治活動を止めた。これは年来の友人たちとの絶好だけでなく、やはり革命家であった妻との断絶も招いた。妻は夫の決意を受け入れることができなかったのだ。 

 

日本の呼び声 

 ワノフスキーが新たに全身で熱中するようになったのは、シェイクスピア、とくにその悲劇『ハムレット』だった。このイギリスの劇作家の創作を深く掘り下げつつ、その後の2年間を過ごした――第一次世界大戦が勃発するまでは。大戦は彼に、自首して恩赦を受け、将校として前線に出征するよう促したのである。

 ところでワノフスキーが後年回想したところによると、大戦に先立って、彼は不思議な夢を見たという。夢には、東洋風の人々と奇妙な文字、それに噴煙を上げる火山が出てきた。後に彼は、この夢を「日本への旅路の第一段階」だったと考えた。第二段階は、彼が負傷後、極東に移動させられたこと。そして最後の第三段階は、精神疾患の発作を治療するため、1919年に日本に送られたことだ。この後彼はもはや故国に戻ることはなかった。

 日本はたちまちワノフスキーを虜にした。横浜に住み着いた彼は、この街と国に惚れこんでしまった。非常に感受性の鋭敏な彼は、日本の地理と歴史を夢中で研究し、火山と地震にさえも魅了され、「日本人の幸福と安寧の神秘的な守り手」としての富士山に関する大著『日本の勇士』を著した。

 1923年8月、ワノフスキーは友人、知己たちに、東京に自身が迫っているので逃げるように、と説得し始めた。だが、誰も信じる者はおらず、彼はあの9月1日を北海道で一人で迎えたのである…。

 

日本永住を決意 

 ところで、ワノフスキーのシェイクスピアに関する深い知識と理解はつとに、日本の学者たちの注意をこの奇妙なロシア人に引き付けた。早稲田大学のロシア文学科の創設者である片上伸教授は、彼を講師として招いた。

 ワノフスキーは、当時早稲田の文学部長であった坪内逍遥とともに、シェイクスピアの研究を大々的に始め、とくに『ハムレット』の宗教性を探求した。その一方で彼は、日本学者ミハイル・グリゴーリエフと協力し、『古事記』を綿密に研究し、大論文「古事記と聖書」を執筆した。また、火山の調査も続けており、全国を回り、最も高い火山に片端から登った。

 当時の彼にたった一つ欠けていたもの、それはロシアであった。1926年、彼はソ連への帰国許可を得たが、ちょうどこの頃、東京に彼の娘が来訪し、ソ連の現実を話して聞かせた。それで彼は、どこにも行かず日本に留まる決心をした。

 

ユニークな業績 

 ワノフスキーは、早稲田で教鞭をとり続け(1921年~1943年)、プーシキン、シェイクスピア、モリエールの宗教観を比較し、日本の怪談と、様々な民族の宗教的神秘主義を研究し、日本の神々の「火山的性格」およびそれと結びついた日本人の国民性について考え、小谷部全一郎と石川三四郎の日本人論を研究し続けた。

 1940年代に入る頃には、ワノフスキーは日本最高のシェイクスピア研究者の一人で、おそらくは日本最高の神秘思想家となっていた。1941年に著書『火山と太陽』を完成し戦後に出版したが、1961年に同書は「神道」紙上で、日本的心性の深奥を開示した「天才的作品」と激賞されている。

 歳月は流れ、早稲田での彼の教え子たちも教壇に立つようになったが、彼は研究を続け、日本哲学界のユニークな伝説となった。彼ととくに親しかったのは丸山眞男、黒田辰男(最初の教え子の一人)、嶋野三郎で、嶋野はワノフスキーの最期を看取っており、このロシア人なくしては、早稲田大学も日本の哲学界もシェイクスピア学も考えられないと言った。

 アレクサンドル・ワノフスキーは1967年に93歳で逝去。その希望に基づき、彼が生前こよなく愛していた高尾山麓に葬られた。

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