大鵬~昭和の大横綱

大鵬(本名は納谷幸喜)=Getty Images/Fotobank撮影

大鵬(本名は納谷幸喜)=Getty Images/Fotobank撮影

昭和時代に大活躍した相撲力士、大鵬(本名は納谷幸喜)は2013年1月、その生涯を閉じた。日本において人気が高く、さまざまな貢献を果たしたこの人物について、今さら紹介をする必要もなかろう。だがこの「日本に亡命したロシア人」シリーズで、補足をしておきたい。

 大鵬が現役を引退して長い時間が経過しているが、日本人と外国人の間に生まれたハーフの子どもがひとつの頂点を極めた、模範例であることに変わりはない。正確には、大鵬は日本人とウクライナ人の間に生まれた子どもである。だがロシア人は大鵬を同胞とみなしている。これは旧ソ連の市民の独特な考え方だ。

 

歴史に翻弄された家族

 大鵬の父マルキャン・ボリシコは、現在のウクライナ、当時のロシア帝国で生まれた。多くのウクライナ住民は19世紀末、極東地域やサハリンに移住し、人口希少地域を開拓(この地域の住人の多くが、いまだにウクライナ語なまりのロシア語を話す)。1900年にこのようなサハリンへの移住者のひとりとなったのが、マルキャンである。サハリンの生活条件が厳しかったにもかかわらず、マルキャンは商業的な成功を収め、1917年のロシア革命まで、何不自由なく暮らしていた。

 マルキャンは革命の際、ボリシェヴィキと戦っていた白軍に従事したことから、日本軍がサハリン北部から撤退した1925年以降、日本治政下となった南樺太にしか暮らすことができなかったという。新たな生活の場となったのは、敷香町(現在のポロナイスク市)。マルキャンは1928年、若き日本人女性の納谷キヨと結婚。その後子どもも生まれ、サハリンがソ連に完全に統治される1945年まで、幸せに暮らしていた。キヨが4人の子どもを連れて日本に引き揚げた際、マルキャンはサハリンに残らざるを得なくなり、他の白軍関係者と同様、自由を剥奪された。解放された後は、死去する1960年までサハリン州立郷土博物館で守衛として働いていたが、存在感のある個性的な人物で、地元のジャーナリストによって2つの特集記事が組まれるほどだった。

 

ソ連崩壊後、一躍ヒーローに

 納谷幸喜という日本名に変えた息子のイワン・マルキャノビッチが、日本の相撲界で活躍していることを、ジャーナリストは知らなかった。ソ連時代に白系ロシア人にスポットが当たることはなかったため、大鵬が大活躍していたにもかかわらず、ソ連では誰も関心を持っていなかったし、持ち得なかったのだ。状況が変わったのは、ソ連崩壊後。過去についての見方が変わり、それまで知られていなかったスポーツ種目にも目が向けられ、アマチュア相撲連盟までできた。

 大鵬は2002年に父の母国であるウクライナを訪れて大鵬幸喜杯を設け、相撲の普及に寄与し、2011年にウクライナの友好勲章を受賞した。大鵬は黒海沿岸のオデッサ市を訪れてはいないが、この街の港には大鵬の銅像がある。100年前、ここからサハリンに向けて蒸気船が出港していたが、マルキャンの極東への旅路はここが起点となっているのである。

 

激動の時代に打ち克った人

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愛と友情の音と色

 ロシアで大鵬の偉大なる功績と人物像が知られるようになったのは、つい最近である。相撲分野のロシアの専門家であるデニス・イサエフ氏は、大鵬が日本とロシアだけでなく、モハメッド・アリやペレのような世界的なスポーツの伝説であると話す。「大鵬は日本だけでなく、全世界の財産。我々ロシア人は、この伝説的な横綱が子ども時代にイワンと呼ばれていたことを、誇りに思うことができる。母とともに生家を離れ、父と生き別れた5歳の少年は、ソ連を恨むことだってできた。だがソ連にもロシアにも、そのような悪い感情を持つことはなく、ロシア初の関取となる露鵬などを息子のように育て、ロシアに行くことを夢見ていた。現代ロシアで高まり続けている相撲への関心は、両国友好の確固たるかけ橋になるだろう。そしてそれこそが大鵬への最高の追悼になるのだ」

 ロシア人は体が大きくて頑丈だ。だからこそ相撲は身近で、興味深いスポーツなのである。ロシアのアマチュア相撲は、すでに世界で上位に位置している。だがプロ相撲で、我々の心を誇りと希望で満たし、日本の歴史で特別な輝きを放っているのは、大鵬幸喜ひとりだけなのだ。

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