モスクワの数学者

ナタリア・ミハイレンコ

ナタリア・ミハイレンコ

 夜中0時過ぎ、帰宅途中に、近所のアルメニア人の一家がやっている商店で煙草とビールを買おうと立ち寄った。店のおじさんが外で煙草を吸っていたので、挨拶して一緒に中に入る。この店は24時間営業と書いてあるが、だいたい夜中1時くらいに閉まってしまう。

 

 「ビールください」というと、「どのビール?」と聞かれた。安いロシアビールという気分ではなかったので、「美味しいのください」と言った。おじさんが「お前、俳優か」と聞いてきた。前にも聞かれた。演劇大学の寮が近くにあるから、おじさんは若い男を見ると必ずこうきいてくる。

 

 「演劇学を研究しています」と答えると(3回目)、「おれは数学者だ」とおじさんが言う(初めてきいた)。どこからどうみても、汚い商店のおっさんなのだが、話をきくと、エレバンの高校で数学を20年近く教えていたらしい。「すごい、高等数学って哲学みたいですよね」と言うと、「哲学じゃない、音楽だ」と言われ絶句した。商店のおっさんから「数学は音楽だ」という言葉が飛び出てくるなんて。「哲学なんてのはただの言葉だ」とおじさんは言う。

 

 「魚食べるか?」と唐突に聞かれた。なにを言っているのかわからないが、「もしあるなら、じゃあ、はい」と答えると、「ウォッカは飲むか?」と続けて聞かれた。ウォッカはいらないので、丁寧にお断りした。

 おじさんはぼくを連れてお店の奥に入っていく。丸テーブルの上に、数学の問題が置いてあった。

 

 「この問題解けるか」と聞いて来た。三角形が組合わさった、パッと見は簡単そうな図形だった。

 「この真ん中の三角形が必ず正三角形になるように証明してみろ」。さっぱり分からない。とりあえず関数に変えて式を作っていく。「できるか、おう、それが証明の第一歩だ」と言われるが、式を作るにつれ、これはすぐに証明できない問題だと気づいた。

 

 「これはモーリーの定理っていうんだ。これまでいくつか証明があるが、その証明は400枚もの紙を費やしてようやく証明ができるんだ」「でもおれは、見ろ、こうやって1枚で証明した。美しい証明方法だと思わないか」「これをこんどの国際学会で発表するんだ」。おじさんの手には一枚の用紙があり、そこには様々な国際学会の予定がリストアップされていた。マーカーで塗られている予定の学会は、次の12月にモスクワであるものだった。いつも一番安い煙草を渡してくれるおじさんは国際学会での発表のチャンスを虎視眈々と狙っていたのだと知って、胸が衝かれた。

 

 その後、おじさんの友人だという映画俳優の体格のいい40歳過ぎの男性が来て、一緒にアルメニアコニャックとビールを飲んで、2時過ぎに帰った。ちなみに、その映画俳優の男性は1週間前に北海道で撮影があったらしい。帰ってインターネットで検索したら『北海道の警察』というタイトルからして香ばしいTVドラマだった。

 

 男性に「ヴギク(有名な映画大学)を卒業したんですか?」と聞いたら、「いやおれは最初舞台俳優だったんだ、軽演劇のね」と言っていた。「じゃあギチス(有名な演劇大学)ですか?」と聞いたら、「ギチスにもシェープキンにもシューキンにも(全部有名な演劇大学です)入ろうとしたが、入れなかった。だからキックボクシングをやることにした」と意味不明の返事がかえってきた。彼は今日から5日間ペテルブルグらしい。

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