皇帝の血を引くファッションモデル

 ロシアで100年前、何百万人もの人生を激変させる出来事が起きた。1917年のロシア革命だ。皇帝アレクサンドル2世の孫で公女だったナタリー・パレ(ナタリア・パレイ、1905~1981)もそんな一人。ロシアで幸せな幼年時代を送ったが、革命後は移住して有名なモデル・女優となり、パリおよびハリウッドを席捲した。旋風のような人生。喝采、歓喜に満ちた賛嘆、カメラのフラッシュ・・・。そんな個人メロドラマの結末があのように悲劇的なものになろうとは、誰が予想し得ただろうか。
Natalia Paley
ナタリー・パレ氏  =TopFoto/Vostock-Photo

スキャンダラスな結婚のもとに生まれた

 ナタリーの父親、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公(アレクサンドル2世解放帝の6男)は、若くして伴侶を失い、それから間もなく、有夫かつ帝室外の婦人であるオリガ・ピストルコルスと恋愛関係を持った。時の皇帝ニコライ2世は二人の結婚に断固反対だった。パーヴェルとオリガはイタリアで密かに結婚。1905年、パリで娘のナタリアが生まれる。1908年、ようやくロシア皇帝から夫婦の帰国が許され、オリガとその子供たちは公位とパレイの姓を賜った。幼いナタリアはツァールスコエ・セローの屋敷で何不自由なく、愛情に満ちた中で育った。

 

「家族と共に」=「パブリックドメイン」(公有)
「パレ姉妹」=「パブリックドメイン」(公有)
 
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 運命の1917年、15歳の彼女の人生は、血痕によって、「それ以前」と「以後」とに分断された。父と兄弟は逮捕され、のち処刑された。皇帝の血を引く子供たちを救うため、オリガはフィンランドに逃亡、そこからフランスに入った。

 

パリの生活

 ナタリーは幼くして既にモードの世界に通じていた。常に上流の貴婦人であった母親がフランスの最高のデザイナーたちと関係を維持していた。

 ナタリーはすぐにモデルになる決心をした。まずは「イテブ」や「イルフェ」といったロシア系移民のモードハウス専門だったが、シャネルのお陰でフランスのモードの世界に歩を進めた。そこはもはや全くの別世界だった。

 少女は高名なデザイナー、ルシアン・ルロンに推薦される。ナタリーはルシアンの協力者となり、パートナーとなり、1927年には妻となった。しかしこの「不釣り合いな結婚」にナタリーの両親は反対、間もなく離婚となった。

 

「最初の夫ルシアン・ルロン氏と共に」=「パブリックドメイン」(公有)「最初の夫ルシアン・ルロン氏と共に」=「パブリックドメイン」(公有) 

 ホルスト・P・ホルスト、セシル・ビートンほか、多数の著名写真家が彼女を撮った。そうして彼女はファッション・アイコンとなり、熱狂と模倣の対象となった。彼女の写真がヴォーグ誌のページに踊った。しかし、美貌ばかりではなく、輝かしい知性もまた、彼女の魅力だった。作家やアーティスト、演出家や俳優らの集まりでも、彼女はいつも人気の話し相手であった。崇拝者も数多く、中には、たとえば画家のサルバドール・ダリがいた。また、ダンサーのセルジュ・リファールがいた。

 1930年代初め、彼女は作家・画家のジャン・コクトーと知り合う。二人の恋愛は、不意の、明るい閃光のようだった。コクトーはバイセクシャルで有名だったが、友人たちの回想によれば、ナタリーはコクトーがあれほど強く惹かれた唯一の女性だった。しかし、数ヶ月の短い恋愛は、悲劇的な結末を持った。ナタリーがコクトーとの間に授かった子供を亡くし、その後ふたりは別れたのだ。

 

海を越えて

 間もなくナタリーは映画監督のマルセル・レルビエの目に留まった。ナタリーは招かれて彼の映画『鷹』に出演。続く「ジャン王子」ではジャン・ド・マルゲンを演じた。映画スターとしてのキャリアを素早く積み上げ、1930年代半ばにはハリウッドに渡った。

 私生活では二度目の結婚。お相手は著名演劇プロデューサーのジョン・チャップマン・ウィルソンだ。夫は妻の女優業を快く思わず、パレイは間もなくファッションモデルの職に回帰した。

ナタリー・パレ氏、1935年=Ullstein bild/Vostock-Photoナタリー・パレ氏、1935年=Ullstein bild/Vostock-Photo

 

静かな入り江と噴火する火山

 ナタリーは社交界の雌獅子となっていく。彼女のサロンでは女優のマレーネ・ディートリッヒ、新聞王ウィリアム・ハーストをはじめ、多くの貴族、政治家、芸術家、音楽家と出会うことができた。

 米国で再び天才たちとのロマンスが始まった。最初の一人はフランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。出会いは1942年だった。サン=テグジュペリは米国に居ながら、占領下のフランスの命運と、妻コンスエロの不貞に悩んでいた。ナタリーは彼に温もりと安らぎを与えた(それらはすべて最初の夫であるルロンに彼女が与え損ねたものだった)。ふたりの恋愛には嵐のような情熱というものが欠けていた。その終わりも同じく静かであった。それからも二人は長く文通を続け、心の通い合う友人であり続けた。

  反対に、次なるロマンスは、人生の11年間にわたる火山の噴火であった。作家エーリッヒ・マリア・レマルクはナタリーを「エジプト猫」と評した。彼は気もふれんばかりに彼女のことで嫉妬した。一方のナタリーも、レマルクはやはり女優マレーネ・ディートリッヒへのかつての恋を忘れられないのだ、との思いに苦しめられた。絶えざる闘いにより、関係性は徐々に壊れていき、レマルクが新たな熱中対象を見つけるとともに、終結した。

 

この世の栄光は過ぎ去る

 1950年代初頭、夫のもとへと還る。ウィルソンは大酒を飲み、間もなく肝硬変で死亡する。

 そうして静寂が訪れた。彼女に近しい者は死んだり彼女を忘れたりした。観客たちは新たな映画スターに夢中になった。天才たちは彼女を去り、別の世界へと入っていき、または新たなミューズを見いだした。オベーションも写真機も鳴りやんだ・・・。鏡の中にはもう年老いた女性。ナタリーにとって、それは全ての終わりを意味した。こうしてこの世の栄光は過ぎ去るのだ。

 黒い繭のごとき抑鬱が彼女に絡みつく。ますます人と会うのを避けるようになる。それよりは蒸留酒の瓶を傾けた方がいい。苛むような20年だった。ナタリーは76歳にして大腿骨頸を骨折。医者の診断は暗澹たるものだった。「死ぬまでマヒ状態が続く」。この宣告を耐え忍ぶ力はもはやなかった。ナタリーは睡眠薬を過剰摂取し、その灰色の眼を永久に閉ざした。

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