ロックの伝説ヴィクトル・ツォイ

タス通信

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 ソ連のロックバンド「キノー(映画)」のボーカル兼リーダーのヴィクトル・ツォイは、30年前に悲劇的な死を遂げた。だが今でも、ロシア音楽界のスターとして、人々の心の中で生き続けている。全国規模でロックの英雄となった唯一の人物であり、戦争と愛とは何か、誰もが理解し心に刻まれるように、ロシア語で歌えた唯一の歌手である。

歌手になるまで

 ツォイは1962年、レニングラード市(現サンクトペテルブルク市)生まれ。父はカザフ・ソビエト社会主義共和国クズィル・オルダ出身の朝鮮人エンジニア、母はレニングラード市出身のロシア人教師。いわゆるハーフである。ツォイは子ども時代に絵の才能を発揮し、美術学校を卒業。日本の根付を自分で彫刻したり、ロバート・プラントなどの西側のロック・スターの肖像画を描いて闇市で販売したりしていた。

 ソ連時代だった当時、有名人の写真、音楽雑誌、レコードなどの入手は簡単なことではなかった。だがツォイと友人たちはロックからニューウェーブまでのあらゆるジャンルに興味を持ち、また聴いていた。ツォイは自分でギターの弾き方を覚え、早くから作曲を始めていた。その後、ジョイ・ディヴィジョンやザ・キュアー、またツォイお気に入りのザ・スミスのサウンドをほうふつとさせる、4人のバンド「キノー」を創設。アンダーグラウンドなコンサートを始めた。

 ラジオ、テレビへの出演、ソ連唯一のレコード会社「メロディヤ」との契約のチャンスは皆無だった。他のアンダーグラウンドなロッカーと同様、ツォイと仲間はアルバムを制作し、リールなどにして頒布していた。オリジナル(マスター・テープのコピー)は10ルーブル。当時の高級ウォッカ3本分に相当する。その後アルバムはレコーダーからレコーダーへと録音されていった。このような非公式、未検閲の作品の流通は、サミズダトと呼ばれていた。

 

いかなる色もない、国民的な歌

 正式な機関を通していない、この魅力的な音楽は、モスクワからウラジオストクまで、全国に勢いよく広まっていった。もっとも人気の高かったアルバムのひとつは「血液型」(1988年)。どのレコーダーからもこの曲が流れていた。ヒット・ソング、おしゃれな電子サウンド、ダンスのようなリズム...国内では匹敵するものがなかった。

 ある時、セルゲイ・ソロヴィヨフ監督の映画「アッサ」の最後で、突然キノーのライブが映し出される。キノーは「変化がほしい!」という歌をうたっていた。この歌のリフレイン「私たちは変化を待っている」は、ペレストロイカの非公式な賛歌となったが、実際には政治とは無関係な歌で、若者が大人の生活を望む感情を伝えていただけだった。ツォイは社会的な色を含む、いかなる色も持っていなかった。

 ロシア・ロックは社会的な現象である場合が多かったが、ツォイの場合は自然的な現象である。アルバム「夜」では、「僕らの誰の中にも獣が眠っている。僕らの誰の中にもオオカミが眠っている。僕はダンスしている時にその呼吸を聞く。僕らの誰の中にも何かがある。僕らのまわりは空っぽなのに、なんで立っているのかわからない」とうたっている。これはいつ、どこで、ではなく、いつでも、どこでも、どんな時でも、どんな国でも共通することなのだ。

 これより後にリリースされた歌には、「ここであったことは好きではなかった。そしてここであることも好きではない」という歌詞がある。これは何についてなのか、ソ連とロシアについてなのか、古いことと新しいことについてなのか、世界の全否定なのか。これはすべてについてである。ツォイの“汎用的な”表現は、1980年代でも真実だったし、今でも真実だ。

 ロシアの他のアンダーグラウンドなロックの英雄とは異なり、純粋無垢な表現をし、いつでも最初であり、最後であった。文化の文脈を超えた、裸の地球上の裸の人間。地球、空、星、太陽、死、愛、夏...だけが、主な歌詞なのである。文脈は死に、変化し、過去のものとなったが、ツォイがうたった歌詞は今でも生きている。

 ツォイは1988~1989年、いわゆる「皆のためのすべて」になった。若者同士が知り合いになる時、一般的だった質問は、「何聴くの?」だった。その答えは通常、「我々の」か「外国の」だった。そして会話は進み、「デペッシュ・モード」か「アイアン・メイデン」か、または「ロシアの弾き語り音楽」か「ソ連のポップス」かなど、具体的な質問になる。好みがどんなに違っていても、ツォイの話では皆の意見が一致。ほぼすべての人に尊敬されていた。特に音楽的な才能がなくても、ツォイの歌をギターで弾いたり、うたったりするのは簡単で、国民の間で浸透していた。

 

「キノー(映画)」が映画に

 映画「アッサ」の最後の場面を撮影したのはソロヴィヨフ監督ではなく、カザフ人の弟子ラシド・ヌグマノフ。ヌグマノフはその後、おかしなサスペンス・スリラー映画「針」を制作しているが、この時、男優としての経験がほとんどなかったツォイに主役を打診。音楽を奏でたり、自分を演じたりする役柄ではなかった。

 友人の証言によると、ツォイはプライベートではロック・スター風ではなかったという。皆が集まる時はとてもおとなしく、ほとんどジョークを言わず、また空手などのスポーツを好んだ。映画の役は皮肉的で口数の少ない辺境の住人で、本人らしさが出ている。そしてこのイメージが、そのままツォイのイメージとなった。自分の服を着て、髪型も変えずに出演していたのだから、当然だろう。

 

「あまりマトリョーシカにはなりたくない」

 1988~1989年、キノーはデンマークなどの外国に招待されるようになり、慈善フェスティバル「ネクスト・ストップ」にも参加。フランスのロック・フェスティバルや、イタリアでも演奏した。ツォイはフランスで、西側での記録的なキャリアを積んだ。バンドは「ル・デルニエ・デ・エロ(最後の英雄)」という名称で、いくつもの歌をレコーディング。現地で成功を収めた。ただ、これ以上はなかったが。

 アメリカでは、「パークシティ」フェスティバルで映画「針」が公開された後に、1度だけ演奏している。映画はコンペ出品作ではなく、特別イベントのカテゴリーに入っていた。ツォイとバンドのギタリストであるユーリ・カスパリャンはプレミアに参加し、公開後に少しだけ演技も行った。これはツォイの最初で最後のアメリカ訪問である。本人はインタビューで、「あっちでは誰も私のことを知らないから、普通に通りを歩ける」と言っていた。曲はアメリカの小さなレコード会社「ゴールド・キャッスル・レコーズ」からリリースされ、アメリカの「ヴィレッジ・ヴォイス」紙からは肯定的な評価を受けていた。

 ツォイが真剣に海外進出を目指していたか否かはわからない。本人は欧米での活動について懐疑的だった。インタビューを聞く限り、外国人がロシア・ロックに心から興味を持てるとは思っていなかったようだ。デンマークの公演は、慈善イベントだったために応じたが、他の条件では、応じていなかっただろうと話している。

 フランスについては、「若きレーニン主義者」紙に1989年春に掲載されたインタビューの中で、こう述べている。「西側では今、ロシアやソ連がブームになっている。だがこれはマトリョーシカに対するものと同じように、それほど真剣なものではない。ロシア人でも我々と同じようにギターを弾きながらうたうんだ、といった関心。それでもこのブームを利用して、資金的にも公演的にももっとも恵まれていない条件で受け入れられることを知りながら、外国に急いで進出するグループはたくさんある。私はあまりマトリョーシカにはなりたくない。お金の問題じゃなくて、国のステータスの問題。外国に行きたいなら、旅行者として行く方がいい。私たちは少し違うことをした。まず、フランスでレコードをリリースして、次に、有名なヨーロッパのロック・フェスティバルに出演した。だからどれだけコミュニケーションが取れそうかを見てみることにした。これが大成功だったとは言えない。なぜなら私たちに期待されていたのはロシアのエキゾチックな何かだったのに、蓋を開けてみたらロックだったのだから」

 

スターの中のスター

 ツォイは1990年、自動車事故で死亡した。28歳の若さだった。

 キノーの最後のコンサートが行われたのは、ルジニキ・スタジアム。ヨーロッパ有数の大きなサッカー場である。コンサートは満席だった。「マンションでも、アンダーグラウンドなクラブでも、10人しか入れないような部屋でも、どこで演奏しても同じ。演奏できるから演奏する。できなければ無料でやってもいい。今は広い場所で公演できる機会があるから、それを活用しているけど、永遠に続くわけじゃない。少なくとも、好きなことをやっている。国の政治的な状況も含めて、どれだけ状況がそれを許してくれるかだけど」とツォイは話していた。

 あれから25年。この間たくさんの新しい音楽が生まれ、新しいスターが誕生したが、異なる世代の多くの人が昔と同じように「キノー」の曲を聴いている。古くなることなんてない。優れたミュージシャンはたくさんいるが、ロシアのロックの英雄はただ一人――彼の名はヴィクトル・ツォイ。

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