血の日曜日事件

1905年の今日、1月22日日曜日(ユリウス暦1月9日)に、1905年の第一次革命の導火線となった「血の日曜日事件」が起きた。事件にはいまだにいくつかの謎が残っている。

立役者となった司祭ガポン(1870~1906)は、農民出身で、トルストイ主義の影響も受けていた。神学大学在学中に、工場での伝道も始め、1903年には、労働者の文化サークル「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」をつくり、当局にも承認された。当時、政治結社や労働組合の組織は禁止されていた。

そこへ、1904年12月に、同市最大の金属機械工場「プチロフ工場」(労働者1万2千)で、労使間の紛争が発生し、ガポンのサークル員も4人解雇された。同工場は翌年早々からストライキに入り、他工場にも波及していった。

ちなみに、ロシア政府が、「国内の革命的状況を阻止するために、ちょっとした対外的勝利を得る(内相プレーヴェ)」ために始めたはずだった日露戦争の戦況も、悪化するばかりで、1905年1月1日には、難攻不落と言われた旅順要塞が陥落してしまった。

請願書のアイデア 

内外の状況への不満が高まるなか、ガポンは、皇帝への請願書を書いて労働者の窮状を訴えるとともに、広範な改革を求める、というアイデアを考え付いた。

「陛下! わたしたちペテルブルク市の労働者および種々の身分に属する住民は、わたしたちの妻や子、よるべなき年老いた親たちともどもプラウダ(正義)と助けを求めて、陛下の御許へやってきました。わたしたちは貧しく、圧迫され、無理な労働に苦しめられ、人間として認められず、つらい運命をじっと黙って耐え忍んできました。しかし、わたしたちは、ますます貧乏、無権利状態、無教育のどん底に押しやられるばかりで、専制政治と横暴にのどもとをしめつけられ、窒息しそうです。陛下、もう力が尽きました。辛抱できるぎりぎりのところまできました。耐えがたい苦しみがこれ以上続くくらいなら死んだ方がましだという、恐ろしい時がきてしまいました」

事件前日:全市がストで麻痺 

請願書の冒頭はこんな調子で、政治犯の釈放、立憲政治の実現、人権と自由の確立、税制の改革、日露戦争の中止、労働法制定などを政府に命じるよう、ツァーリに懇願するという内容だった。

「もしそうお命じにならなければ、わたしたちの祈りにお答えくださらなければ、わたしたちは、ここで、この広場であなたの宮殿の前で死にましょう」。請願書はこうむすばれていたが、まさか本当に発砲されるとは…。

事件前日の1月21日、ストにはいった工場は456、参加労働者は11万1000人(ペテルブルクの全労働者数は18万人)という空前の事態に発展していた。

政府は、翌日の冬宮請願行進を把握しており、歩兵1万2000人、騎兵3000人を出動させ、いかなる行進も許さず、要所の守りを固めることを決定。

事件当日 

1月22日の日曜日はめずらしく晴天となった。推定10万人近い労働者とその家族が、工場街から冬宮をめざし、行進をはじめた。当時はいかなるデモも禁止されていたが、この行進は、イコン、十字架などを掲げる平和なものだった。「兵士よ、人民を撃つな」の横断幕も掲げられていたが、阻止線に来ると、行進は騎兵に蹴散らされたうえ、一斉射撃がくわえられた。衝突と発砲は、冬宮前広場のほか10ヶ所以上で起こり、死者は公式発表で約100人だが、実際は約1000人、負傷者数千といわれる。

事件の衝撃はすさまじく、民衆の庇護者「良きツァーリ」の伝統的イメージは一気に崩壊し、恐慌状態とストライキは全国に広がった。

発砲命令は誰が? 

事件当日、皇帝ニコライ2世は、ペテルブルク郊外のツァールスコエ・セローにいた。各種資料によれば、政府上層部で、予め事件のさまざまなシナリオを予想し、対策を講じた人物はいない。もし、行進が当局の命令にしたがわず、引き返さなかった場合どうするのか―。それについての指令書もなかった。ところが、起こった事実をみると、市内各所で発砲されている、という奇妙な状況なのだ。

ガポンその人についても、スターリン時代は、彼は当局のスパイで、この行進は労働運動の高揚をおさえるために行われたとの説が強調されたが、確証はない。

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