ロシアパンの芳醇な味と香り

=Lori/Legion-Media撮影

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現在ロシア市場では、世界各地のパンが販売されているが、ロシアには、ここにしかないロシアパンの味というものがある。

1836年、シェレメチェフ伯爵はロシアの偉大な詩人、アレクサンドル・プーシキンに次のような手紙を書いた。「兄弟よ、パリの生活はひどい。食べたい物がないし、黒パンは入手できない」。この文章から、ロシアの味に飢えていることがわかる。黒パンとはすなわちライ麦パンで、何世紀にも渡って食事の基本また主食となり続け、特に昼食で1キロも黒ライ麦パンを消費していた村の農家では、その傾向が強かった。

前世期半ば頃まで、さまざまな発酵工程にもとづいてパン生地がつくられていたため、このパンは他のアジアの酵母なしの扁平形のパンとは異なり、「酸っぱいパン」と呼ばれている。1940年から1950年代にイースト菌が登場すると、酸っぱいパンのつくり方は忘れられ始めた。

ボロジンスキーの起源 

ロシアでもっとも有名なライ麦パンのブランドは、「ボロジンスキー」である。これは特別な茹でパンで、穀粉とイースト菌の他に、ライ麦の麦芽、蜂蜜、コリアンダーが材料になっている。この特別なパンの、他では得られない少し甘味のある味と香りは、旧ソ連共和国のどこでも愛されているし、ロシア人は外国でこのパンを懐かしがる。

女子修道院の修道女が、1812年にナポレオン軍とロシア軍が交戦したボロジノ村で、このパンを最初につくったという説と、1920年代にモスクワで初めて現れたという説がある。どちらにしても、現代の「ボロジンスキー」パンのレシピは、1933年にモスクワ製パン・コンビナートで承認されたものだ。

現在はライ麦パンの新しい種類がたくさんあるが、やはりソ連時代を知る世代はソ連の味を思い出して懐かしがっている。現代の製パン業者は、製造時間を縮小するためにさまざまな添加物や生地の軟化剤を使うし、ソ連時代はどの食品の生産も統一国家規格に沿っていたのに、現在は業者によって質も味もバラバラだ。

ソ連時代に戦略的食品だったパンの価格には、実際原価が反映されることはなく、1ヶ月の平均給与が120ルーブルから140ルーブルだった時代に、パン1斤20コペイカ(1コペイカは1ルーブルの100分の1)、棒パン16コペイカ、穀粉の小さいパンが3コペイカから6コペイカの固定価格となっていた。1963年や1970年代終わりのブレジネフ書記長時代に、材料不足で西側諸国から穀物を買わなければいけなかった時でも、ソ連の保有外貨で補い、パンの価格が上がることはなかった。

白い小麦粉のパンは20世紀初めにようやくロシアで普及するようになったが、それでも一般庶民にとってはずっと特別な祝日のパンで、豊かさの象徴であった。そのため、漂白した一等粉の穀粉を使い、少し甘味を加え、一部の白パンや小さいパンには油や脂質を加えて代用していた。ロシアの白パンがフランスパンのように密度が低くなく、パンの皮がパリパリではないのもそのためだ。

ロシアの白パンでもっとも有名なブランドは、ふっくらとしたリング形の「カラチ」だ。14世紀にロシアの手工業者が酵母なしの白パンのつくり方をタタール人に教えてもらったのがきっかけだが、ロシア人の手でつくられたパンは似ても似つかない物になってしまった。一等粉の真っ白な粉を使ってカラチの生地をつくっていたが、この生地を入念に混ぜて、何度も冷暗所に置くことが特徴となっていた。

かつてもっとも有名な「カラチ」は「モスコフスキー」と「ムロムスキー」(ウラジーミル州ムロム市から)だった。「ムロムスキー」はエカチェリーナ2世にもふるまわれ、以来ムロム市の市章にはカラチがついている。ロシアのフォークロア(民間伝承)には、カラチに関することわざや慣用句も多いが、残念ながらあまりカラチにはお目にかかれない。

それでも、忘れ去られた、または失われた、ロシア帝国時代のパンのレシピは、現在復活し、「新たな人生」を手に入れている。

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