パンクの反乱と宗教

ナタリヤ・ミハイレンコ

ナタリヤ・ミハイレンコ

ロシア正教会の聖堂内でプーチン政権批判のゲリラ演奏をした女性パンクバンド「プッシー・ライオット」のメンバー3人は8月17日、モスクワ地区裁判所で禁錮2年の実刑判決を言い渡された。この背景には政権とロシア正教会の癒着に対しての人々の不満がある。この事件と社会のかかわりについて識者2人に聞いた。

政治と正教会の
改革が必要

ウラジスラフ・イノゼムツェフ、

経済学博士、ポスト工業化

社会研究センター社長

ロシアのキリスト教の運命を平坦なものとみなすことはできない。きわめて首尾一貫した教義の「純粋さ」の保持を目指しながらも、西方のキリスト教よりもはるかに世俗の権力にこびてきた。

欧州諸国の全歴史を通しても、カトリック教会は、正教会がロシアだけの歴史を通して行ったほど皇帝を聖列に加えはしなかった。そうした状況は常に権力を満足させ、両制度の間には極めて矛盾する関係が成立した。

主教たちは自分の権力を神に基づくものとみなす一方で、世俗の権力を下から見上げ、その強大さと可能性をうらやんだりしていた。その結果、ソビエトの重圧が弱まると教会はステータスを取り戻そうと躍起になった。

今日、ロシアには教会改革という課題がある。それは「プッシー・ライオット」によって提起されたものではない。正教は、「オルターナティブな」修道会に大きく水をあけられている。

例えば、ハバロフスク地方では登録されている163の宗教団体のうち96は正教ではなくプロテスタント系である。沿海地方では、プロテスタント系が178なのに対して正教は89である。

教会が「国有化」されればされるほど、「新しい正教」の需要が高まり、それは大きな未来を有しているようだ。

政治的な改革が国家機構の解体を想定しているとすれば、宗教の改革は従来のものに対抗できる新たな機構やネットワークの構築に尽きるのだから。ロシアの政治はこれに劣らず批判に値する。キリスト教国として、固有のキリスト教的価値を許しがたいほどないがしろにしている。

世界にはキリスト教民主党がいくつもあるが、ロシアでは政党法が宗教的な属性を帯びた政党の創設を禁じている。しかも、「政党名における宗教的利益擁護の目的の反映」すら念頭に置いた非常に厳しいものである。その結果、教会は政党でありえないが、事実上あらゆる政治団体の禁止をもたらすような言動の権利を有している。

憲法によれば、ロシアは多民族国家であるが、総主教の考えによれば、そうではない。総主教は「ロシアは民族的および宗教的マイノリティーを伴う正教国である」と公言した。刑法には、国民が信者の感情をはずかしめた責任を追及される条項はないが、教会が是認している現状においてはそれらがあり、プッシー・ライオット事件がその証である。

教会の経済は、厳しく言えば闇の経済である。教会の資産管理の規則はロシア正教会の規則で定められているが、正教会の規則は法務省に登録されていないため、無いに等しい。

ロシアには今2つの改革を断行する課題がある。一つは、正教会が社会的進歩および現代的な人権のドクトリンを受け容れるような改革であり、もう一つは、ロシア社会の多宗教性を考慮した政治の改革である。

(アガニョーク誌抄訳)

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反正教ヒステリーの異様さ

ウラジーミル・ミーロフ、

「民主的選択」党議長

プッシー・ライオットをめぐる一件はロシア社会の宗教対立を一気にあおった。正教を見下すモスクワのボヘミアンたちの間では「社会に介入している」としてロシア正教会を非難するのが当たり前になっている。

確かにそうした介入は否定できない。国内では他宗教の権利がある程度抑制され、学校に正教教育を導入しようとしたり、クリスマスやパスハ(復活大祭)の礼拝の模様が国営テレビ局によって執拗に生中継されている。

極めて世俗的で、国家の世俗的性格とあらゆる宗教の平等を主張する必要性を十分認識している政治家の私もこうした現状を憂慮している。

しかし、公平を期して言えば、私は社会的なものにせよ、政治的なものにせよ、自分の生活において教会の過度な圧力を感じたことは一切ない。

それだけになおさら不思議なのは、多くのロシアの知識人、実業家や定職をもたない、いわゆる「クリエーティブ・クラス」がプッシー・ライオットの事件をめぐり、正教会に対して異様なほどのヒステリーを起こしたことだ。正直なところ、それにひどく憤っている。

ここで想起しておきたい点がいくつかある。第一に、プッシー・ライオットの訴追は教会でも信徒でもなく、ここ十年ほど私たちの日常生活の宗教的側面の増幅に手を貸してきた国家によって行われた。

第二に、プッシー・ライオットについても問題がある。例えば、ナージャは2007年のデモ行進で政治の舞台に登場した。その際、夫のベルジーロフは車の上に跳び乗り、デモ参加者らに警察隊を襲撃するよう呼びかけた。ベルジーロフは集会参加者によって取り押さえられ、警察へ突き出されたが、警察は彼の後ろを歩いていた「私服の者たち」に制止されて彼を拘束しなかった。

第三に、リベラル派の知識人たちが何の根拠もなく、このうえなく下劣な言葉で正教徒たちをこき下ろすのは、インテリ自身のイメージダウンにつながる。

第四に、ロシア正教会にも問題がある。幹部は許し難いほど贅沢に暮し、国家官僚の一部に成り下がった。

自ら正教徒と名乗る国民の信仰そのものも、往々にして奇異な印象を残し、そうした人の多くは教会へも行かず、聖書も読んでいない。多くの意味でこれは悪いことではない。何十年にもわたって植えつけられた無神論の時代の後に、人々が余計な押しつけなしに自ら信仰を探し求めていることを意味する。

宗教は国民一人ひとりの私的な事柄であり、それはそのままにすべきである。

私は世俗的で教養ある人々とみなしてきたインテリ層の振舞いを何よりも憂慮している。友よ、反正教的なヒステリーはお終いにしよう。さあ、互いを敬おう。宗教はそっとしておいて。

(「正教と平安」抄訳)

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