専門家の告白録

フセヴォロド・オフチンニコフ氏=「ロシースカヤ・ガゼータ」紙撮影

フセヴォロド・オフチンニコフ氏=「ロシースカヤ・ガゼータ」紙撮影

伝説的な国際ジャーナリスト、フセボロド・オフチンニコフ氏は、11月17日に85歳の誕生日を迎える。 彼は「プラウダ」紙上で、中国、日本、イギリスなどの様々な国の日常生活と文化について読者に伝えてきた。ロシア政府発行紙「ロシースカヤ・ガゼータ」紙とも長年にわたって仕事を続けている。オフチンニコフ氏の回想録「あるプロの告白」から一部を抜粋してご紹介したい。

中国研究家から日本研究家へ

 1950年代に中国でジャーナリストの仕事を始められたことは幸運だったとしか言いようがない。中国関連ならどんな話題でも当時は最優先で扱われたので、「プラウダ」紙の記者のなかで私は最年少だったのに、一番多くの記事が採用されていた。

 ところが、毛沢東とフルシチョフの関係がこじれた後でソ連に帰国してみると、自分の努力は無に帰して、元の木阿弥となった。中国関係の話がさっぱり受けなくなってしまったので、日本の専門家に転身することを決意した。

 北京から戻って2年後に、東京支局の駐在を命じられた。当地で、日本人教師に教わりながら毎朝数時間ずつ日本語を勉強した。日本の新聞の見出しを理解するのに、漢字の知識が役立った。中国語とは、言ってみれば、東アジアのラテン語なのだ。漢字と古代中国の哲学や文学を知っていたことで、他のロシア人の日本専門家よりも日本人にとって目立つ存在となった。

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 私は、日本人の国民性を描こうとするとき中国人のそれと比べてみたが、似た点より対照的な点が見つかることがしょっちゅうだった。中国人はいわばアジアのドイツ人だと言える。中国人は論理と理性で行動する一方、日本人はアジアのロシア人で、感情と直観が優越している。二国民の根本的な気質の違いに触れたことで、両者の生活の「文法」を比較し、日本人の魂についての「ガイドブック」を作ろうという考えが生まれた。それが後に『一枝の桜』に結実した。

 

人より多くのことを知る

 自国民に偏見なしに世界のことを見てもらう―。まさにそのために、我々、国際ジャーナリストたちは規制の枠を超えようと、日々、血のにじむような努力をしていた。そういう誠実さとひたむきさを多くの人々が評価してくれたおかげで、我々は今の芸能界のスーパースターさながらに、国内各地のどこへ行っても、大きな会場を聴衆で埋めることができたのだった。

 厳しい報道管制がしかれていたソ連のマスコミで、どうやって40年間も自分の言葉で伝えることができたのだろうか。圧力から自分を守る最善策とは、高度な専門的知識と能力であると確信している。

 1970年代初頭に、バラとナイチンゲールと詩の伝説的な街、イランのシーラーズ市を訪れたが、その時、私は14世紀ペルシアの詩人、ハーフェズのお墓に連れて行かれた。お墓の傍らには、ハーフェズの詩集を抱えた老人がいつも座っていて、本を墓石の上において無作為に開き、そこに出てきた言葉を人生の教えとしていた。

 私が恐る恐る真似をすると、老人は開いたページを読んでくれた。「天文学の法則を解した詩人のみ、星空の美しさを賛美する権利がある」。

 私には、この教えの深い意味をすぐに理解することはできなかった。それはすなわち、著者が見たり感じたりしたものを読者にそのまま伝えるだけでは十分ではない。物事の本質を洞察し、潜在的な読者以上に、それについて知っていなければならない―。

 このことを悟ってから、私の専門的知見がソ連時代の検閲からシェルターのように私を守ってくれていた理由がようやく分かった。私の上司たちは、私が中国や日本のことに精通していて、自分たちがかなわないと感じていたので、みじめな思いをしないように、あえて指摘を避けてきたのだ。

 日本人とイギリス人について書いた私の本には、様々な時代に様々な研究者が両国民に関して述べていたことがらが凝縮されている。読者を引きつけたのは、こういった密度の濃さだろう。『一枝の桜』は、過去40年に40回ほど再版され、うち4回は日本でのものだ。日本には私の本のファン・クラブがあり、その代表となっているのは中曽根康弘元首相と森喜朗元首相だ。

 もう一度言おう。ジャーナリズムとは、人々の知的欲求を高めて、それをより鋭敏に、賢明に、教養豊かに、善良なものに育て上げていくための、絶え間ない努力なのである。他人の知識を高められるのは、自分自身が多くを認識した人間だけだ。だからこそ、記者の専門的知見は、創造的独立性の保証となるのだ。

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